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学びの深化におけるプロセスについて


訓練を通して体験的にわかってくること

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は非二元の霊性の道であるということは、すでに周知のことです。

その教えの中心概念は「この世界は幻想である」「この世界は実在しない」というものではありますが、私たちが覚えておかなければならないのは、その実践というものは、この世界やこの世界での経験をむやみに否定していくようなものではないということです。

もしそのような実践をしているとしたなら、それは否認であって、せっかくの癒し(赦し)の機会を台無しにしていることになるといえます。

コースのテキストでは、それを「否定の中でもとりわけ無価値な形の否定」(T-2.Ⅳ.3:11)であるというふうに述べています。

コースの実践は、この世界やこの世界での経験を否定していくような実践ではなく、むしろ、この世界での具体的な経験を使っていくということです。

つまり、外側の世界に対して動揺したならば、その動揺をきっかけに訓練をしていくわけです。

それはどのような訓練か?

というなら、心に戻る、原因に戻る、という訓練です。

それは、投影に気づいていく訓練であると言うこともできます。

「これは投影である」と気づくたびに原因である心へ戻っていく訓練をしていくわけです。

その実用的なレッスンがワークブックのレッスン5だといえるでしょう。


”私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。(W-p1.5)

奇跡講座/中央アート出版社


その訓練をしていくにしたがって理解されてくるのは、それが如何なる動揺であろうとも、その動揺は自分が外側に知覚しているものとは一切関係ないということです。

それはどういうことか?

というなら、自分が外側に知覚しているものはすべて投影(影)であると認識するようになっていくわけです。

いわゆる、「世界は無い、他者はいない」ということが体験的に理解されていくということです。

それは、訓練を通して体験的に次第に分かってくるということです。

外側の世界で起きていること、自分の人生で起きていること、それらを使ってただ動揺しただけなのだということが体験的に理解されていくということです。

そして、理解されてくるのは、それだけではありません。

本当の自分(真の自己)は、この世界とは一切関係ないところにいるのだということが認識されていきます。

というのも、この時空の夢の外側にいるこ真の自己(真のアイデンティティー)が自覚/認識されてくるからです。

それに伴って「自分は肉体ではない、自分はここ(この世界の中)にはいない」ということがますます腑に落ちていきます。

そのように知覚されるならば、たとえそれが深刻なことであったとしても、もはや深刻さはなくなり、むしろ、微笑ましくみることができるようになります。

何度も申しますが、そういうことは実践を通して体験的に理解されていくものであり、体現されていくものであるということです。

それは、知的レベルで理解するのとはまったくちがうのだということです。

知的理解と体験的理解では、天と地ほどの差があることを知っておかなければなりません。

それは、修得され、体現されなければならないものだということです。

たとえ頭で知的に理解しているとして、実践を通して訓練されていかないかぎり、その理解は何の役にも立たないといえるでしょう。

それとは逆に、実践を通して外側の出来事とは関係なく平安でいることができることを経験していくとき、外側には何の力もない、何の意味もないことを悟るようになっていきます。

これまで自分は「無」に対して一喜一憂していただけだった、と。

自らあえて平安を拒絶して、ただ深刻になろうとしていただけだったということを悟るわけです。

「外側には何もない、本当は世界などない」と分かるなら、外側は一切変える必要などない(世界を変える必要がない)ことも分かってきます。

それがどういうことを意味するのか?

というなら、外側の世界を変える必要がないということは、外側の世界は完璧(パーフェクト)であると分かっていくということです。

いわゆる、自分は完全なる世界(実相世界)に居たのであって、それを自分はただ誤って知覚していただけだったのだと理解されてくるのです。

以上が、訓練を通して明らかになってくるものだといえましょう。


学びの成果としてもたらされるもの

上記に述べたように、コースの実践を通して心の平安を経験していくにしたがって、自分の心の平安は外側で起きていることとは一切関係がないのだということが分かってきます。

それが、赦しの実践を通して、学ばれ、そして成果としてもたらされるものです。

あくまでも、それは実践を通して、つまり心における訓練を通して、体験的に学ばれ、理解され、体現されていくものであるということです。

言い換えるならば、訓練がなされないならば、それは学ばれることもないし、理解されることもないし、体現されることもないということです。

でも訓練がなされていくならば、その学びは確実に深化していきます。

ここが天国であると分かってくることになります。

というのも、すでに愛が臨在していることを認識するようになるからです。

学びが進化していくにつれて、さらに、いろんなことが明らかになっていきます。

本来は、すべてを持っていて、何も失わない、であるにもかかわらず、失う、奪われる、という体験を自分ででっち上げたがっているということ。

本来は、外側から何も必要とはしない、であるにもかかわらず、そのような自分ではないということ。

自分は、今、その真実を学ぶためにここ(この世界)にいるのだということが自覚されていくといえるでしょう。

そして、この世界を、それらの真実を理解していくための「教室」として知覚するようになっていきます。

それは、実際に、知覚のシフトとして実感されていくことになります。


以上のことから申しましても、コースはまったく曖昧な霊性の道ではないと言うことができます。

その教えが歪曲されることなくしっかりと学ばれ、実践されていくならば、それは確実な道であるということが分かるでしょう。

なぜなら、それが体現されていくからです。

そうなっていくためにも、この霊性の道を歩んでいくための基盤となるコース形而上学(理論)をしっかりと理解し、そして、自分自身に根付かせていくことはとても重要なのだということをわきまえておきましょう。


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