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二元性を超えた世界を知覚し始めて分かってくるもの

コースの内容がさまざまに解釈されていることについて

私自身、その学びは今も尚、深化し続けていると言うことができます。

ただ、この私にとって、その学びがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)というスピリチュアリティの枠組みに限定することができなくなっているというのが正直なところです。

それというのも、コースに対する認識が少しばかり変わってきていて、『ア・コース・イン・ミラクルズ』というもの自体が一つの霊性の道にしかすぎなく、その内容はたんに一元論のスピリチュアリティを比喩的に表現した「書物」でしかないという認識になってきた感があるということです。

そこで語られている言葉がキリスト教用語を比喩的に使って表現されているだけのものだと理解されるならば、ワプニック博士が云っている通り、まるでポエム(詩)を読んでいるような感覚になるのも当然だといえましょう。

なので、実質、私自身にとってコースを学んでいるというよりも、一元論のスピリチュアリティを学んでいるという感覚が強いわけです。

要は、私の中でコース(ア・コース・イン・ミラクルズ)というものが特別なものではなくなって普遍化(一般化)されてきたということです。

もちろん、それはコースの学びが深化してきたからこそ、そうなってきたということは言うまでもありません。

ところで、現在では、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を教えているたくさんのコース・ティーチャーを見受けることができます。

かくいう私も、その学びと実践を通して理解したことを皆さんにシェアしたり、あるいは、勉強会やセミナー等でコースを教えるような活動をしているその一人なわけです。

そして思うのは、コースという同じものを学んでいるとは言っても、その解釈、実践の仕方たるはさまざまであるということです。

以前の私であるならば、そのことについて「これが正しい、あれは間違っている」というふうに見えていたわけですが、コースに対する捉え方が変わってきたせいもあり、以前の見え方とはずいぶんとちがってきたといえます。

というのも、私たちはコースの教えを言葉を通して学んでいくわけです、

しかも、その言葉たるは比喩的な表現で書かれてあるせいもあり、むしろ、どんなふうにでも解釈されても仕方ないと言うことができます。

それが受け入れられるようになってきたのも、コースの学びが深まってきたからこそだと言うことができます。

コースが様々に解釈されたりしたとしても、どのように実践されたりしたとしても、人は学びたいように学ぶし、そういうことが起こるのは当然なことだと思えるのです。

それは、コースに限ったことではありません。

そういうことは、歴史上の宗教にもよく見られます。

むしろ、宗派、流派、といったものが生じてしまうのは、この世において避けることの出来ないことだといえます。

そういう視点から見るならば、私(もりG)がシェアしているコースの内容ですらも、いわゆるワプニック博士が教えているコースを私なりに理解したものでしかないと言うことができます。

この私がワプニック博士が教えている内容を本当に理解しているのか?コースを私は本当に理解しているのか?というなら、それすらもその真実は分からないということです。

この私が勝手な解釈をしている可能性だってあるわけです。

ワプニック博士の教材で学んでいるコース学習者はたくさんおられます。

ときには、ワプニック博士の教材をちょっとかじっただけで、自分はワプニック派だと主張していたりするコース学習者やコース・ティーチャーもいたりするわけですが、私自身もそんな彼らと何ら変わりないと思うわけです。

何が正しくて、何が最善か?

そんなことなど誰にも分かりっこありません。

真理から見るならば、コースを正しく学んでいようがいまいが、もっといえば、コースを学んでいようが学んでいまいがまったくかまわないわけで、誰もが最善と完璧さの中を生きていると言うことだってできるわけです。

それが、コースの学びと実践を通して私が学んで理解したことです。

その学びは今も尚、深化し続けていて、その知覚がますます開かれていっているのを実感しています。

ようするに、すべてが赦された世界を知覚していくことが自分の機能であることが分かっているなら、コースがどんなふうに解釈されていようが何の問題もないということです。

結局は、自分が理解したコースを、自分なりに実践していくほかないということでしょう。


今も尚、その学びは深化(進化)し続けていているがゆえに、皆さんに伝えておきたいこと

当然、この私(もりG)も、学びのプロセスの途上にいる身であることにはちがいありません。

今だに新たな洞察や気づきがあります。

それだけでなく、その知覚はまったくこれまでのこの世界の見方とは異なるものになってきています。

そのような意味でいえば、この学びの探究は尽きることがないと言うことができます。

コースにおいてはそれを「学びの階梯」という言い方で表現したりするわけですが、たしかに階梯の高みへと上っていくごとにその景観が確実に変わってきているのを実感します。

コースを学びはじめてからすでに十年以上になりますが、私自身の体験的なところから言いますと、コースという霊性の道は自分たちが思っていた想像(観念/概念)をはるかに超越していくものと言うことができます。

コースを理解すればするほど、そのことを実感するようになるといえます。

二元性を超えていこうとしているわけですから、当然といえば当然です。

コースという霊性の道を歩んでいくことは、まさに制限なき心へと開かれていくと言うことができましょう。

ただし、ここで私たちがしっかり押さえておかなければならないことがあります。

それは、私たちの自覚していない無意識のところでは、自分の想像(考え)を超えていくこと、つまり、自己を超越していくことをとても恐れているということです。

ですから、コースという霊性の道を歩んでこの世界から目覚めていこうとするならば、そう生半可な気持ちでは歩んでいけるようなものではないということです。

この霊性の道は、万人向けではない、ということです。

中途半端な学び方をしていくならば、いくらコースを学んでいったとて、難解なコースとして留まってしまうことなるでしょう。

それはコースの教えが難しいからなのではありません。

コースを難しくしているのは、自分の考え(枠)でコースを理解しようとするからに他ならないということです。

それというのも、コースを真摯に学んで、コースが教えていることを真に理解していくならば、自分の考えや自己というものが崩壊させられていくプロセスを経験することは避けられないからです。

いわゆる、それがコースの学びが深まっていくプロセスでもあるわけです。

そのような地道な学びと実践の繰り返しによってしか、この学びは深化していかないと知っておくと良いでしょう。

この私もあたかもコースをわかったふうに語ったりしておりますが、まだまだ階梯の途上にいるわけで、これからも学びを深めていくこと、そして実践(訓練)していくことには変わりはありません。

そして、その学びの深化は今も尚、進化し続けているわけですから、当然それに伴って、実際にこれまでもそうであったようにシェアしているその内容や言葉、表現の仕方、言い回しといったものも変わっていくことでしょう。

そういうことで言えば、私がコースについて語っているとしても、あるいは、私がコース形而上学について語っているとしても、それはあくまでもその時における理解をシェアしているにすぎないということです。

ですから、そういうことをご理解のうえで、私(もりG)が語ることばを受け取っていただきたいし、これからもどのように深化していくのかを楽しみにしていただけたらと思う次第です。


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