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このコースを学ぶには、あなたが抱いている価値観のすべてを疑ってみようとする意欲が必要である
自分は分かっている
自分が誰なのか?について、そして、この世界がどういうものなのか?について、私たちは「自分は分かっている」「自分は知っている」と思っています。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の観点から言えば、この「自分は分かっている」「自分は知っている」と思っていることが、自分たちをまったくの無知(狂気)の状態にしているのだということです。
自分が知覚しているもの、思考しているもの、感じているもの、体験しているもののそれらをまったく疑うこともなく、それが真実だと信じ込んでいるのが、まさにそういうことなのです。
でも、コースの学びが深まっていくにつれて、自分が知覚しているもの、思考しているもの、感じているもの、体験しているもの、それらすべてが自我の思考体系によってでっち上げられた嘘(幻想)であるにもかかわらず、それらをまったく現実のものとして信じ込んでしまっているということが自覚/認識されていくようになります。
世界のすべてが嘘(幻想)であるだけでなく、それらを経験している自分だと思っている自分もじつは嘘(幻想)なのだということも分かってくるわけです。
嘘(幻想)とはどういうことか?というなら、つまりは実在しないということであり、何の意味も、何の価値もないということです。
つまり、私たちは「自分は分かっている」「自分は知っている」と思って生きていますが、じつのところ、何も分かってないということです。
しかし、そのことはコースの思考体系(聖霊の思考体系)を理解するようになってはじめて自覚/認識されてくるものです。
それゆえに、まだコースの教えが根付いていない段階においては、コースが教えていることをまったくのデタラメで信じられないこととして受け止めることでしょう。
あるいは、コースが教えていることに対して恐れを抱くことさえあるでしょう。
この世界が幻想だなんて信じられるわけがない、と。
そう、コースが述べていることよりも、自分の考え方のほうが正しくてまともだと思ってしまうわけです。
いわゆる、それを「I know mind(アイ・ノウ・マインド)」の状態と呼びます。
するとどうなるか?というと、
たとえコースを学んでいたとしても、コースが教えていることよりも自分の考えのほうを信じているわけで、まったくコースの教えていることが学ばれていかないということです。
そういうことは、とくにコースの学びの初期の段階においては、よくあることだといえましょう。
コースの観点から見るならば、むしろ、まったくデタラメなのは私たちのほうであり、私たちの考えのほうであるわけです。
だからこそ、このコースは何度も何度も学びと実践を繰り返してコースの思考体系の理解を深めていくほかないのだといえます。
つまり、それはそう簡単な道ではないわけで、じっくりと根気強く生涯学習のつもりで取り組んでいく必要があるといえましょう。
言い換えるなら、コースの学びが進んでいくにつれて、自分は何も分かっていない、ということがますます自覚/認識されていくようになります。
自分が間違っている、ということが受け入れられるようになっていくということです。
そう、この世界にいる私たちは今や自我と同一化してしまっていて、あり得ないことを、つまり、幻想を私たちは知覚しているだけなのです。
というのも、神との一体性(ワンネス)が本来の私たちなのですから。
すべてはひとつ、私たちはひとつ、、、それが真理なわけです。
にもかかわらず、私たちはそれぞれにバラバラに存在しているかのように知覚しているわけで、
ようするに、個別で存在していること自体があり得ないことなのに、私たちはそれを知覚し、それだけでなく、それを信じているということなわけです。
真理から見るならば、知覚しているもの、思考しているもの、感じているもの、体験しているもの、それらを多種多様にみんながバラバラに経験していること自体が、まさにあり得ないことなのです。
そう、私たちは、この今も、あり得ないこと(幻想)を信じ込んでいる状態にあるわけです。
私たちはコースを通して、ずっとそのことについて学んでいるのだということができます。
自分が何なのか?何をしているのか?何が自分にとって最善の利益なのか?自分たちは何も分かっていないのだということを私たちが認識できるようにコースは導いてくれているわけです。
コースは、そのような霊性に道であるということを知っておきましょう。
価値観のすべてを疑ってみようとする意欲
コースの学びと実践を通して私たちは何をしていくのか?
というなら、
これまで当たり前としてきた私たちの思考体系を逆転していく、つまり、訂正していくことを目指しているのだと言うことができます。
その実践として「自分は分かっている」「自分は知っている」というその自分の考えのすべてを疑問視していくことが私たちに求められているということです。
このコースを学ぶには、あなたが抱いている価値観のすべてを疑ってみようとする意欲が必要である。(T-24.in.2:1)
自分の考えや自分の信じていることのすべてを疑問視していくこと。
それが、私たちに求められていることです。
それは、
自分の考えを正しいとするのか?
それとも、
コースの教えていることを正しいとするのか?
ということです。
それをコースでは、
自我を教師とするか?聖霊を教師とするか?
自我と共に見るか?聖霊と共に見るか?
という選択肢として表現しているわけです。
あなたは自分が正しいことと、幸福であることのどちらを好むだろうか。(T-29.VII.1:9)
自分の正しさを主張するなら、つまり自分の考えを正当化しようとするなら、聖霊(正しい心)を招き入れることができなくなるということです。
つまり、自分は分かっている と信じているなら、幸せ、平安がもたらされることはないということです。
というのも、神との一体性(ワンネス)の記憶を覚えている聖霊(正しい心)を拒絶しながら、平安や幸福がもたらされることなどあり得るでしょうか。
それとは逆に、自分のほうが分かってないのであり、コースの教えていることのほうが正しいのだとしていくなら、それは「神からの分離は起きていない」ということを選択しているのであり、
もちろん、その結果としてもたらされるのは、神の平安(の反映)であり、神の愛(の反映)であり、いわゆる「幸福」がもたらされるということです。
実際、私たち(自我)は、自分はこの世界でも幸せになれると信じていますし、どうすれば幸せになれるのかについても知っていると思っています。
お金があれば、仕事が成功すれば、人生がうまくいけば、、、自分は幸せになれると。
要は、「神から離れたこの世界でも、自分は幸せになることができる」と信じているということです。
まともに考えるなら、それこそが狂気であるのは明らかです。
とはいえ、この世界にいる私たち誰もがすでにその状態になってしまっています。
だからこそ、そのことをまずは自覚/認識していくこと、それがコース学習者の私たちがしていくことだといえます。
狂気の思考体系を信じ込んで、もはや自我と同一化してしまっていることを自覚し、その自分(自我)を咎めずに見る、ということをしていくということです。
そして、それがコースで云うところの「聖霊と共に見る」「自我を聖霊のもとに運ぶ」ということの意味です。
その実践をしていくとき、私たちはそこにこそ真の癒し(赦し)があることを実感していくようになります。
そして、その真の癒し(赦し)に触れていくにしたがって、ますます私たちの知覚は訂正されていくことになります。
そう、学びが進んでいくとき、あなたは「自分の正しさ」よりも、「自分は何も分かっていない」ことのほうを望むようになっていくでしょう。
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