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「奇跡」という手法を使って真のアイデンティティーを思い出していく


投影か?奇跡か?

一見すると、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えはとても複雑で難しい教えのように思えます。

でも、その学びが深まっていくにつれて、つまり、奇跡だけが自分の関心事になっていくにつれて,、ふとあるときにその教えが実に単純であることが分かるようになります。

むしろ、複雑にしていたのは、自分の「心」のほうだったのだと分かるのです。

コースの教えが複雑で難解に思えるのは、自分たちが「心」を複雑に断片化させたからであって、それゆえに、コースはその訂正としてあのような複雑で難解な教えになったのだと言うことができます。

さらにいえば、その「複雑さ」を反映したのが、この世界です。

この世界を見るならば、あらゆる人、もの、出来事がこの時空のスクリーンで展開していく中で、それらはまるで複雑で混沌であるかのように見えます。

でも、コースの教えの単純さを理解するようになるならば、たった一つの問題しかないということが分かるようなります。

コースの学びと訓練が繰り返されていくことによって、コースの思考体系(コース形而上学)が根付いていくにしたがって、そのように知覚されるようになるということです。

この世界で起こることがどんなに如何様な形態であろうとも、その形態の複雑さはまったく関係なくなっていきます。

重要になってくるのは、どちらの教師と共に見ているか?ということであり、そっちのほうが私たちがフォーカスすべきものとなっていきます。

コースでは、それを「自我と共に見るのか?聖霊と共に見るのか?」というふうな言い方をしています。

自我の教師と共に見ているときには、それは「投影」しているということです。

そして、その訂正として、聖霊の教師と共に見るとき、それを「奇跡」と呼んでいるわけです。

ようするに、

投影か?奇跡か?

ということが私たちが実践において重要視していくべき選択なのだということです。

投影か?奇跡か?

そのことにフォーカスしていくようになるにつれて、関心事が形態レベルの「この世界」から、原因のレベルの「心」へとシフトしていくことになります。

そうなっていくにつれて、自分はこの肉体ではなく、自分は「心(の決断の主体)」であるという自覚/自己認識が起きていきます。

つまり、

自分とは何者なのか?
その自分が何をしているのか?

そのことがはっきりと自覚/認識されていくことによって、真のアイデンティティーが思い出されていくようになるわけです。

そのための手段がコースでいう「奇跡」と呼んでいるものです。

そう、その「奇跡」だけが自分の関心事になっていくとき、コースはとても単純なことを伝えているにすぎないとますます分かってくるといえましょう。


奇跡だけが自分の関心事になるとき

コースの実践において私たちが重要視していくことは、どちらの教師と共に見るのか?ということです。

そのことが重要なのであって、すべては幻想だとして否定していくような実践とはまったくちがうのだということです。

どちらの教師と共に見るのか?

その選択が、毎瞬毎瞬、私たちに問われているわけです。

そして、どちらの教師と共に見るか?で、その知覚はまったく異なります。

自我の教師と共に見るならば、この世界は個別の自己を保持していくための「戦場」として知覚されることになります。
(通常、私たちはそのように知覚しています。)

「戦場」という言葉以外にも、コースはこの世界について以下のように表現しています。


”飢えと渇きに苦しむ生き物たちが死ぬためにやってくる乾いた誇りまみれの世界”(W-pⅡ13.5:1)

奇跡講座/中央アート出版社


聖霊の教師と共に見るならば、つまり、この世界を正気(正しい心)の視点から見るならば上記のことが明らかになるわけですが、なにせ私たちはその視点をまったく忘れています。

だからこそ、私たちはコースの学びと実践を通して、その正気(正しい心)の視点を思い出していく訓練をしていくのだということです。

それが、自我を教師とする代わりに聖霊を教師として選び直していく訓練であり、それを「赦しの実践」と呼んでいるということです。

そのようにして聖霊を教師としていく訓練を重ねていくにしたがって、この世界について、この人生についての知覚がシフトしていくことになります。


今や、世界は緑に包まれる。あらゆるところに生命のしるしが芽吹き、生命あるものは不滅なので生まれたものが死ぬことはないと教える。(W-pⅡ13.5:3-4)

奇跡講座/中央アート出版社


つまり、新しい教師(イエス/聖霊)を選び直していくことによって、この人生、この世界のすべてがこれまでとはまったくちがう目的へと翻訳されることになるということです。

それが、知覚の訂正と呼ばれるものです。

私たちは、この世界、この人生をこれまでとはまったく違う目的で知覚するようになっていくということです。

そして、そのように知覚するようになるということは、コース(の思考体系)の実践をライフワークの中心として生きはじめたということであり、つまり、 人生そのものがこの世界を超えていくためのレッスンの場の「教室」として捉えるようになっていくということです。

「奇跡だけが自分の関心事になっている」状態とは、そういうことです。

そのようにして、この世界の形態を超えていくようになるといえます。

まさに、それは学びの階梯(はしご)を上っていくプロセスのはじまりだと言うことができるでしょう。


現時点では、奇跡だけがあなたの関心事である。私たちはここから始めなければならない。そして、すでに出発したのだから、目覚めと夢の終わりに向かって(階梯を)登っていくにつれ、道は穏やかで単純なものになるだろう。(T-26.Ⅲ.1:3-5)

奇跡講座/中央アート出版社


知覚が訂正されていく経験を重ねていくにつれて、その訂正された知覚こそが真の知覚であることを体験的に理解していくことになります。

それに伴って、 このコースの歩みがますます確かな霊性の道として実感するようになります。

このコースは、この世界から、この幻想から自由になっていく確実な道であり、そしてそれは達成可能なのだということが、ますます確信となっていくということです。

その自分は、もはや「自分は肉体ではない」「自分は人間ではない」「自分は個の存在ではない」ということも自覚され始めていますし、「自分は心である」という自己認識(アイデンティティー)も思い出され始めています。

コースを学んでいるのも、コースを実践しているのも、肉体の自分ではなく、心(の決断の主体)の自分なのだと認識するようになるということです。

その心(の決断の主体)の自分を完全に思い出すことがコース学習者の私たちがゴールとしているものだということを覚えておきましょう。


奇跡とは訂正である。、、、奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。(W-pⅡ.13.1)

奇跡講座/中央アート出版社


このコースは、「奇跡」の道(霊性の道)です。

コース学習者の私たちは、「奇跡」という手法(手段)を使って、本当の自分とは何なのか?真の自己に目覚めていくことを目指しているのだということです。

だからこそ、この霊性の道を『ア・コース・イン・ミラクルズ(奇跡のコース/奇跡講座)』と呼ぶのであり、コースが『ア・コース・イン・ミラクルズ』である所以なのだということを知っておきましょう。


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