「私はいない」も無い
「私」の非実在性を受け入れていく
「私はいない」ということを知っているだけでは、非二元をいきるには十分ではないといえます。
というのも、私たちはすでに「私」の実在性を信じてしまっているからです。
その「私」がいくら「私はいない」としたところで、それはただ言い聞かせているだけでしかありません。
なにせ、「私」は存在していると信じているわけで、ならば葛藤を起こすだけです。
では、どのような生き方、在り方をしていけばいいのでしょう。
まずは、この「私」には「私はいない」という真理を知ることはけっしてできないということを理解することです。
私たちにできることは、「私は存在している」ということを信じていることを自覚して、それが虚偽(嘘)なのだということを受け入れていくことだけです。
それをコース(奇跡のコース/奇跡講座)では、「聖霊と共に見る」「自我を咎めずに見る」というふうな言い方をしています。
私はいない。
ということだけでは、ただ単に私たちが経験していることを否定しているにしかすぎないということを知っておくべきです。
もし「私」の存在を否定していくならば、そして「私」が経験していることを否定していくならば、葛藤を起こすだけであり、「私」の実在性をより強化することになるだけです。
そうするならば、自分自身と戦うことになり、結局は、自分に苦痛、苦しみという代価がもたらされることになります。
たしかに、真理(非二元)から見るならば、「私」はいません。
何度も申しますが、私はいないということを知っているだけでは、十分とは言えません。
純粋な非二元から見るならば、「私はいない」というのも概念でしかないということです。
言い換えるなら、
私はいない、そして、「私はいない」も無い、
ということです。
その双方を受け入れていくとき、
「私」というもの自体がただの概念だったと深いレベルで理解されます。
そのときに、「私」があろうがなかろうがまったくどうでもよくなります。
そうなっていくとき、葛藤がなくなっていきます。
葛藤がなくなるとき、すべてがそれでいいのだと分かってきます。
目の前で起きていること、そして経験していることに抗って戦うことをしなくなっていきます。
いわゆる、自分自身との闘い、現実との戦い、自分の人生との戦い、神との闘い、それらの戦いが終わっていきます。
さらにいえば、敵(戦いの相手)だと見えていたそのすべてが、「これは虚偽である」ということに気づいていくための愛の呼びかけとして知覚されるようになります。
「経験だけがそこに起きているだけ」という感覚は、平安以外のなにものでもありません。
その平安と共にすべてを眺めることができるようになっていくならば、いわゆる、「ただ在る」という状態を体現していくようになります。
コースでは、それを「赦しのまなざし」、あるいは、「愛のまなざし」と呼んでいます。
そこには、もはや個別性、特別性というものがありません。
そのようにして神のひとり子としての認識と自覚が思い出されていくということを知っておくと良いでしょう。
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