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この世界がどういうものなのか?について私たちは悟らなければならない

すべての道の真の不毛さを理解する

非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティと言いましても、非二元というものに、結構、惑わされている人も多いのではないでしょうか。

たとえば、

「この世界は幻想(夢)なのだから、どうせならこの夢を楽しみましょう、遊びましょう、、、」

というようなことを云っているノンデュアリストもおられたりするからです。

その意味は、「幻想は幻想でも、より良い幻想に、楽しい幻想に変えていきましょう、、、」ということなのでしょう。

ですが、そもそもがこの夢(幻想)がどういうものなのか?この世界がどのような思考体系に基づいて作られているのか?まったく分かっていないからこそ、そんなふうに言うことができるのだといえます。

もっといえば、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいる学習者たちでさえ、その真実を理解することなく、この世界の中で自分の人生をより良くするためにコースを学んでいるケースがよくあります。

ようするに、コースではそれを、「真理を幻想の中に持ち込む」という言い方をします。

コースの学びがまだ浅い段階においては仕方のないことかもしれませんが、私たちはそのようなことをいともたやすくやってしまうということです。

私たちはコースが教えていることをよく理解せずして、コースを歪曲して学ぶ傾向があるということです。

そういうことに私たちは十分に警戒していかなければならないといえます。

そのためには、コースが教えている内容は純粋な非二元(一元論)の教えだということをしっかり理解していく必要があるといえましょう。

コース学習者の私たちは、いわゆる、コースの学びと実践を通してこの二元性の世界を超えていこうとしているのです。

コースが教えていることをしっかりと理解していくなら、この世界の苦しみも、楽しみ(快楽)も、どちらも同じ一つのコインの裏表だと分かってきます。

この世界の喜び、楽しみといったものも苦痛と同様に、私たちを牢獄に幽閉させるためのものだと分かるようになるということです。

つまり、「この世界で幸せになりましょう、人生をもっとより良きものにしましょう、、、」と言っているそれらは、この世界の夢(幻想)に縛り付けておくための自我のトリック以外の何だというのでしょう。

そのような自我のトリック/誘惑に惑わされないように、私たちはコースの形而上学をしっかり学び、理解していくことが求められているわけです。

この世界の中には、喜びも希望もありません。

この世界は無です。

無であるものが喜びや苦痛をもたらすわけがありません。

それが非二元の教えであり、それこそが、コース学習者である私たちが学んでいかなければならないことだといえましょう。

さらに私たちが学ばなければならないのは、この世界を幻想(夢)とは見ずにこの世界のものを信じることがどういうことなのか?そのことについても私たちはしっかり理解しなければならないということです。

というのも、その理解がないならば、誰だってこの夢の中で楽しもうとすることでしょう。

だからこそ、コースのイエスは、この世界の夢がどのような世界であるか?について、さまざまな比喩的な言葉を使って描写してくれているわけです。

そう、その中の一つとして、コースでは以下のようにこの世界について描写しています。


”飢えと渇きに苦しむ生き物たちが死ぬためにやってくる渇いた埃まみれの世界”(W-pⅡ.13-5:1)

奇跡講座/中央アート出版社


コースのイエスはこの世界についてそのように描写することによって、私たちがこの世界の夢から目覚めていく方向へと向かうように私たちを動機付けてくれていると言うことができます。

つまり、この世界には幸せも希望もない、とコースのイエスは教えてくれているわけです。

ただし、私たちはその真実をなかなか受け入れようとはしません。

もっと言えば、そのことを受け入れたくはないのです。

もし、この世界の夢は天国の対極として作り出された世界(悪夢)であるということを本当に理解するなら、誰もこの世界の夢を見続けようとは思わないはずです。

私たちは理解していないからこそ、この世界の夢の中に留まろう、この世界の夢を見続けようとするのだということです。


この世界のすべての道の真の不毛さを理解しない限り、誰が喜んでそれらに背を向けようとするだろう。それらの代わりに別な道を追究するためには、この理解から始めることが必要なのではないだろうか。(T-31.Ⅳ.5:1-2)

奇跡講座/中央アート出版社


この世界にはいろいろな幸せや喜びがあるかのように見えます。

そして、そのための方法(道)が幾通りもあるかのように見えます。

それらのどの方法(道)も私たちに真の幸せ、真の喜びをもたらすことはないということを悟るまで、私たちは学ばなければならないといえましょう。

ようするに、”この世界のすべての道の真の不毛さ”を理解しなければならないということです。

私たちがこの世界から自由になるためには、その理解が必要であり、そこからしか始めらないのだと、コースのイエスは教えてくれています。

「この世界で楽しもうとする」ということは、「この世界からは自由にはなりたくない」と宣言しているのと同じだということです。

この世界の中には幸せも喜びもない、愛も光も希望もないわけです。

そんな場所で、私たちは見つけることのないものを探し続けているのです。

私たちはそのことをコースの学びと実践を通して腑に落としていく必要があります。

その真実に気づかせないようにしているのが自我です。

むしろ、自我はこの世界の中で幸せ、喜びがあると信じています。

この世界の中でそうなれると信じています。

私たちはその誘惑にいとも簡単に魅了されてしまうのです。

それがいけないということではなく、そのように突き動かされてしまう自分(自我)を認識していくことです。

それが私たちに求められているのです。

その自分(自我)を咎めずに見ていくということです。

そうしていくことで、自我の愚かさに気づけるようになり、もうその愚かさを望むことをしなくなっていきます。

この世界に見えている、喜び、楽しみ、幸せといったものすべてが天国の代替(パロディ/まがいもの)にしかすぎないということを、私たちは学ばなければならないのです。

天国には帰ろうとはせずに、むしろ天国を拒否してまでこの世界の夢に留まろうとするその愚かさは、まさに狂気としか言いようがありません。

コースの理解が深まっていくとき、私たちはそのことを自覚/認識していくことになります。

そして、そのことを自覚/認識していくにしたがって、私たちは正気に戻る必要性を強く意識するようになります。

そのようになるとき、こんどはこの世界を違った別の見方で見ることができるようになっていきます。

この世界を別の見方で見たいとしていくとき、この世界が本当の自分、つまり自分の本性を思い出すレッスンのための「教室」となっていきます。

そのために、まず私たちは、この夢がどういう世界なのか?を知ることが重要なのだといえましょう。

そう、そのために私たちはコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいるのだと言うことができるでしょう。


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