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スピリチュアルと反スピリチュアル


キリスト対反キリスト

人類の歴史から見ても、私たちにとって宗教や霊的なものは切っても切れないものだと言うことができます。

むしろ、それなしで人間は生きてはいけないとさえ言うことができるでしょう。

それというのも、宗教や霊的なものがない者たちは唯物的なものに頼らざるを得なくなるわけです。

そんな彼らですら、宗教、スピリチュアルとは無縁だとしても、やはり人が死んだときには私たち葬儀を執り行ったり、祈りを捧げたりするものです。

この長い歴史の中で、人類は宗教やスピリチュアルからまったく離れることはなかったわけです。

それと同時に、それとは裏腹に、私たちは宗教やスピリチュアリズムといったものをどこかうさん臭く思っていたり、毛嫌いしているということも否定できません。

この二項対立は、外側の世界で起きているように見えますが、じつのところ、それは私たちの内側で起きていると言うことができます。

その二項対立とは、

一方では、神、愛、光を求めていながら、そのもう一方で、神、愛、光をひどく拒絶している、

というものです。

私たち誰もの内側には、この「二項対立」を抱えています。

それを聖書で表現するならば、

キリストか?反キリストか?

ということです。

それを、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、

聖霊か?自我か?

という言葉で表現しています。

キリストか?反キリストか?

その戦いは、毎瞬毎瞬、私たち自身の内側で起きています。

そして、それが目の前の世界に投影されて、私たちはそれぞれの人生として体験されているということです。

この世界に、この人生に争いや戦いや競争や戦争といったものが絶えないのはそういうことなわけです。

誰もが自分自身と戦っているということです。

本当は戦う相手などいないのに、です。

神の子であるひとり子(サンシップ)が、自作自演の一人芝居の中で、人間という夢のキャラクターを使って体験しているだけなのです。

しかも、その一人芝居とは、自分自身を「十字架に掛ける」というものであり、それはまさに狂気のなせる業としか言いようがありません。

コースでは、そのことについて、「毎瞬毎瞬、私たちは神を殺害している」「神の子を十字架に掛けている」という言い方で表現しています。


私が十字架にかけることができる相手は、私自身だけである。(W-pI.196)

奇跡講座/中央アート出版社


この世界にいる私たちは、まったくそのことを認識していません。

自分が何をしているのか?

この世界に居るということがどういうことなのか?

まったく私たちは分かっていませんし、分かろうともしません。

むしろ、この世界の夢は実在していて、そしてこの世界には希望や喜びやがあって、自分はこの世界で幸せになるのだ、とさえ信じています。

そのことにまったく疑問を抱くことなく、サバイバル、競争に勤しんでいるわけです。

それがこの世界に居る私たちなのだということです。


それは私たちの内側で起きている

霊的(スピリチュアル)なものなしでは生きられないにもかかわらず、スピリチュアルをひどく嫌っているというその様相は、まさに、「キリスト対反キリストの戦い」と言うことができます。

そして、その二項対立は、私たちの内側で起きているのです。

それは、毎瞬毎瞬、自分の内側で繰り広げられているのです。

自分の内側が平安でないなら、そういうことです。

葛藤、対立、自己矛盾は、毎瞬毎瞬、誰もの内側で起きているのです。

そうでないなら、私たちは分離の世界を知覚することはないでしょう。

つまり、私たちが外側に見ているものとは、そういうものなわけです。

それが、キリスト対反キリストの戦いです。

しかも、自分でそれを望んでいるのです。

私たちの内側ではそうであるにもかかわらず、それを外側の世界に投影することで、うまくごまかせているつもりでいるだけです。

この世界で起きていること、この人生で起きていること、それらすべてがじつは、自分の内側で起きているのを外側に見ているだけです。

この世界は私たちの内側(心)の写し絵(投影)なのだということです。

ならば、戦いを終わらせるには、それは内側で起きているということを認識しなければならないということです。

そのことを自分の内側で自覚することなしに、どうやってこの戦いを終わらせることなどできるというのでしょう。

それは原因のレベルで訂正されなければならないということです。

どのようにして戦いが終わるのか?

というなら、それは戦いそのものが虚偽であったと認識することによって、です。


 奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。(W.pII.13.1:3)

奇跡講座/中央アート出版社


見ているものすべてが虚偽であると明らかになるとき、戦いが終わります。

そこには安堵と平安があります。

平安と共にすべてを眺めるとき、それが「赦し」です。

そして、そのときに真の知覚(ヴィジョン)がもたらされます。

同時に、自分とは何者か?自分の本性(真のアイデンティティー)を自覚することになります。

それをコースでは「奇跡」と呼んでいます。

私たちは、その「奇跡」という手段を通して、この世界の夢から目覚めていくのだということを知っておきましょう。


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