コースの学びと実践を通して、私たちは何を成し遂げようとしているのか?
これは聖霊の思考体系をマスターしていくための道である
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、私たちは何を成し遂げようとしているのか?
というなら、その目的は、自我の思考体系から聖霊の思考体系への完全なるシフトだと言うことができます。
それは、自我(二元性)の思考体系から完全に自由なるということを意味します。
もちろん、ワンネス(実相/真理)に目覚めることが最終的なゴールなわけですが、コースではその一歩手前の段階である聖霊の思考体系と完全に同一化することを目指しているということです。
というのも、私たちは自我と同一化した状態になっていて、直接的に真理(実相)に目覚めることをとても恐れているので、コースでは、「聖霊(正気)の思考体系と同一化する」という間接的なアプローチを取るのだということです。
ですから、コースで定義する「目覚め」とは、この世界の夢を見ながらも、そのすべてが虚偽(幻想)であると完全に思い出している状態のことだと言うことができます。
分かりやすく言うなら、コースは自我の思考体系と同一化している状態から完全に脱却することを目標としているということです。
自我からの完全なる脱却、つまり、=聖霊(イエス)との完全なる同一化、ということです。
そして、それをコースでは「贖罪」と呼んでいます。
このコースは、これまでの二元的(人間的/常識的)な見方、考え方をまるごと放棄して、まったく新しいものの見方、考え方へとシフトしていくことを目指しているということです。
(実際は、往古に忘れてしまった本来の見方、考え方を思い出すだけというふうに言うことができます。)
そして重要なことは、それは完全に修得(マスター)されなければならないということです。
つまり、それが当たり前になるまで、その学びと訓練をし続ける必要があるということです。
訓練がなされなければ、修得はなされないということです。
ですから、いくらコースの概要だったり、形而上学が分かったとしても、それだけではまったくの不十分だということは言うまでもありません。
たしかに、コースの概要を理解するだけのことであれば、ちょっとコースをかじれば、それが非二元(一元論)のスピリチュアリティだということは分かりますし、さまざまなコース・ティーチャーから学んだり、その関連本や簡易本を読めば大まかにコースがどういうものかは分かるといえます。
ただし、コースが教えていることを真に理解するようになるためには、知的な理解だけでは十分ではなく、それは訓練がなされていくことによってその理解は深まっていくものだと言うことができます。
覚えておかなければならないのは、知的に理解しただけの段階と、実際の修練によって修得されていく段階では、その学びの深さはまったくちがうということです。
修練がなされているのと、修練がなされていないのとでは、そこには雲泥の差ほどのちがいがあるということを知っておきましょう。
その形而上学を知的に理解したとしても、二元性を超えたというわけではないということです。
どのような考え方で、どのような実践をしていくのか?そして、どのようなプロセスを経てこの二元性の世界から解放されていくのか?といったことについて学ぶのが形而上学であり、その形而上学に基づいた実践を通して、それは体験的に学ばれ、体験的に理解され、そして修得されていくものであるということです。
それは実践(訓練)なしには、それは学ばれていかないし、修得されていかないということです。
ようするに、このコースは聖霊の思考体系をマスターしていくための霊性の道であるわけですが、そのためにはコースの形而上学を学んでいくだけなく、実践(訓練)によってそれを根付かせていく必要があるのだということを覚えておきましょう。
聖霊の思考体系にシフトしていくにつれてどうなっていくのか
コースでは、何を修得していくのか?
というなら、聖霊の思考体系を修得していくわけですが、それによってもたらされていくものが「赦しの視点」「赦しのまなざし」「聖霊のまなざし(心眼/ヴィジョン)」と呼ばれている知覚です。
私たちは、その知覚の仕方をすっかり忘れて(見失って)しまっています。
私たちは、そのようなもう一つの別の知覚の仕方があることすらも忘れて、自分が誰なのか?何をしているのか?さえも忘れてしまっています。
ですから、まず自分はすでに自我と同一化している状態である、ということを認識していくことから、この学びははじまるといえましょう。
そのことを認識せずして、「分離は起きていない、この世界は実在しない」というふうな実践をいくらしたとしても、ほとんど意味をなさないということです。
聖霊の思考体系(一元的なものの見方、考え方)というものがいったいどのようなものなのか?
そして、
聖霊の視点(心眼/ヴィジョン)とはどういうものなのか?
それを思い出していくためには、私たちにとってコース形而上学の学びと、その理解が必須なのだということです。
コース形而上学とは、聖霊が見ている見方、考え方(聖霊の一元的な思考体系)とはどういうものか?についての基盤となるものであり、まさにコースを実践していくための基盤となるものだと言うことができます。
コース形而上学を理解していくことすらも難しいわけです。
でも、コース形而上学を理解するようになるならば、それに基づいた実践(訓練)ができるようになっていきます。
そうなっていくとき、この世界の知覚がもはやこれまでとはまったくちがったものになっていくのを実感することでしょう。
そして、その学びが進んでいくにつれて、聖霊の一元的な思考体系を完全に修得(マスター)することだけが、自分がこの世界にいる唯一の理由(目的)となっていきます。
そうなるとき、あなたは自分が何者であるか?を次第に自覚/認識しはじめるていることでしょう。
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