自我の巧妙さを見抜けるようになるために
正直でいること
私たちは「自分は肉体(身体)である」と信じ切っていて、まるでそのことを疑うことすらありません。
いくら「自分はスピリットである」と学んだとしても、それは単に知的な頭の理解でしかなく、自分の内側に正直になるならば、やはり「自分は肉体(身体)である」と信じ込んでいるのが実状です。
「自分は傷つく存在である、自分は死ぬ存在である」と信じていることは否定できない事実です。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の観点からいうなら、それこそが、もはや自分とは何者か?を忘れて、自我と同一化してしまっているということの証拠だといえます。
ただし、私たちが今やそのような状態になってしまっているということは、まったく自覚されていません。
なので、私たちは動揺、苦痛、苦しみから逃れられることがないわけです。
そんな私たちは、どうやってそこから自由になっていくのでしょう?
そのような状態の私たちに対して、ワプニック博士は、以下のように助言してくれています。
ワプニック博士は、いつも云います。
「正直になりなさい。それが(実践の)はじまりです」と。
正直でいることが”前進するために非常に役に立つ一歩となる”と、ワプニック博士は教えてくれています。
正直になることについて、コースも同じようなことが述べられています。
私たちがしていくのは、”ただ正直でいること”です。
それは、自分自身に対して「正直になる」ということです。
というのも、それこそが、自我を正視するということであるわけです。
ちなみに、「正直になる」というのは、形態レベルの人間関係において何もかも正直になりなさい、ということではありません。
それは心のレベルにおいてなされる訓練であることを覚えておきましょう。
それは、自覚されていない内側の無意識の部分を明らかにしていくことが目的なのだということです。
自分(自我)が、何をしているか?何を考えているか?そのことに気づいていくことが重要なのです。
しかも、それは、咎めずに、裁かずに、というものでなければなりません。
そうでなければ、自分自身と闘うことになり、ただ自我を強化することになるからです。
つまり、私たちがしていかなければならないのは、内側にある「愛の現存を見えなくしている障壁」(T-in.1:6)を明るみにすることなわけです。
それらすべてが自我(の思考体系)から来ていると見る(気づく)ことによって、それらは次第にパワーを失っていくことになります。
それが、聖霊と共に見る、自我を聖霊のもとに運ぶ、ということの意味です。
そして、そのために「正直さ」が求められているということです。
自分を知る
上記でも述べたようにコースの実践において、私たちに求められているのは内側の心の探索をしていくということです。
とはいえ、実際に実践してみると分かることは、内側を明るみにしていくことに対して自我(自分たち)はひどく抵抗し続けるということです。
ようするに、否認、隠蔽しようとするわけです。
その自我の抵抗たるや、あなどれないほど、とても巧妙だといえます。
その巧妙さは、学びと訓練がなされていない学習者にとっては、見抜くことさえなかなか難しいといえます。
自我は、天才的なトリック師、魔術師ともいえるでしょう。
ですから、そのような自我の巧妙な精神力動に気づけるようになるために、私たちはコースを通して自我について学んでいるのだということです。
自我とは何なのか?
自我とはどういうものか?
自我は何をしているか?
自我はどのようにして私たちを欺くのか?
私たちは、コースを通して自我(の思考体系)について理解していく必要があるということです。
「自分(自我)」というものについて理解する(知る)ようになっていくことで、ますます自我が見えるようになっていきます。
そのようにして「自分」というものを知っていくとき、他者の中にも自分と同じものがあることが分かってきます。
つまり、他者も「自分」と同じだということが分かっていきます。
他者の中にあるものは、自分の中にもあるものだと。
いわゆる、外側の他者の中に見える自我は、つまり、ただ自分を見ているだけである、と気づくようになっていくのです。
そういうことを理解して(悟って)いくにしたがって、他者を咎めることもしなくなっていきます。
つまりは、投影しなくなるということです。
投影しなくなるならば、「自分の外側に世界は無い、他者はいない」ということも、「すべてが自分であり、ここには自分以外の誰もいない」ということもはっきりと認識するようになっていきます。
つまりは、自分が何者なのか?自分は何をしているのか?が次第に自覚されていくことになるのです。
それを、コースでは「心を自覚した状態(マインドフルネス)」と呼んでいます。
心を自覚した状態から見るとき、それが、赦しの視点から見ている状態です。
「赦しの視点」からみるならば、自我がいくら巧妙であろうと、その巧妙さに気づいているならば、何の問題もないことを分かっています。
その自分は心であることを自覚しています。
その心の自分は夢の外側から眺めていることを自覚しています。
その視点からは、自我を咎めなしに、ありのままに見ることができます。
ありのままに見るならば、自我には何の力もないことが明らかになります。
その知覚の仕方こそが、「ヴィジョン」「真の知覚」と呼ばれるものであり、それこそが私たちが学んでいかなければならないことであり、私たちが修得(マスター)していかなければならないものだということです。
そして、そのために私たちはコースを学び、実践しているのだということを覚えておきましょう。