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コースは万人に向けた霊性の道ではない

コースは大衆向きのものではない

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが進んでいけないくほど、このコースは万人に受け入れられるようなスピリチュアリティではないということが分かってくるといえるでしょう。

この世界の価値観で生きている私たちにとって、つまり、二元性(自我)の思考体系で生きている私たちにとって、コースが教えているその内容はまさに狂気でしかないといえるからです。

というのも、もしその教えを受け入れるとするならば、この世界は実在しないことになってしまうだけでなく、自分の存在すらも否定することになるわけですから。

すべての無意味性、無価値性、非実在性を受け入れることになるようなコースは、この世界で生きている私たちにとって、そうそう受け入れられるスピリチュアリティではないということです。

そういう意味で、コースは誰もが学ぶようなものではないし、誰もが歩めるような霊性の道ではないということです。

コース(ア・コース・イン・ミラクルズ/ACIM)を口述筆記したヘレン・シャックマンも、その編集に携わったワプニック博士も、実際のところ、「コースは万人向けではない」ということを理解していたといえます。


”ヘレンはいつも、『奇跡講座』は非常に少数の者たち、すなわち前にも触れたように「五、六人」の者たちのためのものだと主張していた。実際の人数はともかく、ヘレンがはっきりと表明していたこと、そしてついでに言えば私も常に同感していたことは、『奇跡講座』は大衆向きのものではない、少なくとも現時点ではそうではない、ということだった。”

ー『天国から離れて』(ケネス・ワプニック著、中央アート出版社・刊)よりー


コースはたしかに誰もに受け入れられるようなスピリチュアリティではないといえます。

ただ、そのもう一方でたしかなこととして言えるのは、私たち誰もが心の深い部分では「神のもとに帰りたい」という望郷の想いを抱いているということです。

だからこそ、私たちは、幸せを求めて、愛を求めて、スピリチュアルの探究の旅をしているといえるわけです。

そして、スピリチュアルの探究の旅のその果てに行き着く先が、このコースというスピリチュアリティ(霊性の道)であると言うことができましょう。

かくいう私(もりG)もそうであったように、です。

いわゆる、探究の旅、魂の旅、癒しの旅、、、をしながら、それでもスピリチュアリティの中に答えを見出せなかった探究者たちがこのコースに惹かれていくのだといえます。

ようするに、このコースは、まさにそのような真理の探究者のための霊性の道なのだと言うことができましょう。

とは言いましても、たとえコースに出会ったとしても、コースを学んでいくことは、そう容易いものではありません。

そこには、多大なる意欲と努力が必要となります。

気楽に、気軽に、というわけにはいかないということです。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を本気で学んでいくつもりならば、この道は長期的かつ地道な学びと訓練を要する道であると知っておくべきでしょう。

というのも、本気で学ぼうという気がないなら、私たちはいとも簡単に、コースを投げ出すか、もしくは、コースの教えを縮小化、矮小化していくことになるでしょう。

そうなってしまうならば、コースの学びが無意味なものになってしまうことは言うまでもありません。

そういう意味で、

何のためにコースを学ぶのか?

コースを学ぶその目的を明確にすることはとても大事です。

人生をより良くしたいとか、それなりに幸せに生きられるならばそれでいい、という目的なら、コースを学ぶのはやめたほうが良いでしょう。

そいういう目的でいくらコースを学んでいったとしても、コースの教えを真に理解することはけっしてないでしょう。

そもそもが、コースはそういう道ではないからです。

コースは、この世界、この人生、そして、自分(だと信じている自分)の無意味性、無価値性、非実在性を受け入れていく道であり、それゆえに、コースは、完全に、まるごと、すべてを放棄していく、明け渡していく道であると言うことができます。

コースを学ぶのであるならば、自分はそのような道を歩もうとしているということを、ある意味覚悟しておくべきだといえましょう。



参考記事:「5、6人の人たち」(ヘレンの言葉)


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