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他人を責めたくてしょうがない、裁かずにはいられない、そんなときどのように対処していくのか?

自我を正視する、自我を咎めずに見る

他人を責めたくてしょうがない、誰かを裁かずにはいられない、誰かを批判、攻撃、咎めずにはいられない、、、

でも、もうそれをやめたい、その戦いをやめたい、終わりたい、、、

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を実践していくとき、誰もが裁きや攻撃がやめられない自分を自覚していくことになります。

そんな自分に対してどのように対処していくのか?

というならば、その裁いている自分を咎めずに見ていくということです。

というのも、その裁いている自分こそが自我なのです。

自我とは、つまり、嘘の自分であり、非実在なわけです。

その自分(自我)にただ気づいていくいうことです。

その自分(自我)を観察していくならば、裁き、攻撃をすることによってこの世界を実在させようとしている自我の力動に気づけるようになります。

そのようにして自我がしていることを明るみにしていくこと、つまり、闇に光を当てていくことをしていくのが、私たちがコースの実践としてしていくべきことです。

そうすることによって、自我はそのパワー(力)を失くしていきます。

ようするに、自我をどうこう変えようとする必要はない、ということです。

それは、裁かないようになろうとする訓練なのではなく、裁いている自我に対して咎めずにただ気づいて(観察して)いく訓練なのだということです。

そもそもが、自我は裁きや攻撃をやめることはありません。

そういうことを形而上学的に理解しておくことは大事です。

たとえ、自我が裁きや攻撃がやめられなくとも何ら問題ではないのです。

その自分(自我)こそが実在しないのです。

実在しないものに何の問題があるというのでしょう。

問題なのは、その自分(自我)を自分だと信じているというところです。

その自分を責めたり裁いたり、あるいは、責めない裁かない自分になろうとするなら、むしろ、その自分(自我)を実在しているものとしてしまうだけです。

そうするなら、自分(自我)と戦うことになり、さらに自我(分離の想念)にパワーを与えることになるだけです。

それが自我の策略であり、自我はそのようにして個人の自分やこの世界を実在させ、神からの分離の想念を立証しようとしているのです。

私たちが覚えておかなければならないのは、個人の自分が裁いたり攻撃したりしたとしても、そもそもが個別(個人)の自分など実在していないということです。

このコースにおける実践は、個人の自分が攻撃しない自分になって、裁かない自分になって、聖者になるという実践なのではないのです。

そうではなく、攻撃している自分、裁いている自分を咎めずに見るということをしていくのです。

でもそのためには、私たちは自我について、自我の思考体系というものについてしっかり理解する必要があります。

そのためにコースを学んでいるわけです。

私たちが自我について理解すればするほど、「自我を正視する」「ありのままに見る」「聖霊の教師と共に見る」ということができるようになっていきます。

ただし、それはすぐにできるようになるというものではなく、学びと訓練(実践)によってそのように見ることができるようになるということを覚えておきましょう。


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