何のために「赦し」をしていくのか、しっかりわきまえて実践していきましょう
「赦しの視点」「赦しのまなざし」とは
赦しの視点とはいったいどのようなものなのでしょう?
それを、一言でいうなら、
We are all the same.
私たちすべては一緒(同じ)
というところからすべてを包含して見ている視点だと言うことができます。
それは、奇跡の第一原理である「奇跡に難しさの序列はない」に基づいた見方です。
そこから見るなら、「どれが正しくてどれが間違っている」というものはありません。
そこには、善いも悪いもありません。
誰かが優れていて、誰かが劣っているというのもありません。
誰かが得る者(勝利者/winner)になって、誰かが失う者(l敗者/loser)になるというのもありません。
どれも等しく幻想(虚偽/自我)であるならば、そのすべてが「同じ」として見えています。
つまりは、聖霊やイエスは私たちやこの世界を、そしてこの世界で起こるすべてをそのように見ているということです。
すべてが全一で一なるものと見ているということです。
そのような見方こそが、私たちが修得しなければならない見方だと言うことができます。
というのも、それこそが、ワンネスをこの世界に反映した見方であるからです。
そして、その視点へと導いてくれるものをコースでは「赦し」「奇跡」と呼んでいます。
その視点については、コースのテキストの中では、「戦場を超えたところ」(T-23.Ⅳ)、あるいは、「夢を見ている者」(T-27.Ⅶ)というふうな言い方で表現されています。
それが「赦しの視点」であり、そしてそこから見えているものが「赦しのまなざし」と呼ばれているものです。
私たちは、その視点を見つける(思い出す)ためにコースを学びそして実践しているということです。
繰り返しますが、赦しの視点に戻るためには、すべてを同じ(みんな一緒)として包含して見なければならないということです。
もし、すべてを同じとしては見ないで、ちがい(差異/相違)を見てしまうならば、もはや「赦しの視点」を見失ってしまうことになります。
ようするに、この世界にちがい(差異/順位/序列)を見ているなら、その視点を見つけることはできないということです。
私たちが覚えておかなければならないのは、自我は、この世界の中にちがいを見させて、その視点を思い出させないようにするということです。
「ちがい(差異/順位/序列)がある」とすることで、分離を実在化させてしまうだけでなく、すべてを包含して見ている視点を忘れてしまうことになるのです。
(それは、テキスト第23章の『混沌の法則』の中で、混沌の法則の第一原理として述べられています。)
そのことを理解するようになるならば、私たちの知覚はすでにそのような見方をしてしまっていることが分かります。
だからこそ、私たちはコースの実践で、その訂正として、この世界のあらゆるものを同じとして見ていくことをしていくのだということです。
というのも、そのような見方をしている視点でないかぎり、「赦し」はあり得ないからです。
さらにいえば、「心」の自分を思い出すこともできなければ、「戦場を超えたところ」を思い出すこともけっしてできないということです。
何のために赦しを実践していくのか
上記でも分かりますように、「赦し」を実践していくときに、まず私たちがしなければならないことは、すべてを包含して見ていかなければならないということです。
それが意味するのは、自と他を別々の存在としては見ないということです。
いわゆる、他者(兄弟)を自分とは別だというふうには見ないということです。
言い換えるなら、それが「投影」に気づくという実践であるわけです。
もし外側の他者(兄弟)が間違っているなら、この自分も間違っているというふうに見ていくということです。
他者(兄弟)の中に自我を見たなら、自分も同じ自我として一なる自我として包含していくのです。
とういうのも、「個の自我」というものはないからです。
たった一つの自我があるだけです。
それは、「個の自分」という見方から「自分たち」という見方へとシフトしていくことを意味します。
それが、神の教師のマニュアルで述べられている「自と他の利害の一致」(M-1.1)として表現されている意味です。
そのとき、自も他もなく、すべてが自分であるというふうに見ています。
そのような見方をしていくならば、別個の自我があるのではないと分かるようになっていきます。
たった一つの自我があるのだと分かっていきます。
一なる「心」の自分がただ間違った見方をしているだけだと自覚されるようになるということです。
それこそが問題なのだと気づけるようになっていくということです。
それによって、自分は「心」であることがますます自覚されていくだけでなく、自分はこの世界の夢の被害者ではないことも自覚できるようになっていきます。
そこから見るならば、
私たち誰もが正しいか?私たち誰もが間違っているか?
という知覚の仕方になっていくということです。
そのような見方は、「どちらも共に」という知覚の仕方であり、それが、私たちが赦しの実践を通して修得していくべき知覚なのだということです。
そのような一元的なものの見方、考え方を修得していくことが、分離の思考体系、つまり、二元的思考体系を手放していくことになるのだということを知っておくと良いでしょう。
そもそも、私たちは一つ(ワンネス)です。
分離は起きていないわけです。
ならば、私たちはけっして別々な存在なのではないということです。
それが、コースのイエスが私たちに学ばせようとしていることです。
ですから、一元的な知覚の修得なしに、神のひとり子である真の自己に目覚めることなど絶対にあり得ないのは明らかです。
ようするに、この二元性の世界から目覚めていこうとしている私たちにとって、一元的な思考体系と一元的な知覚は、真の自己に目覚めるために必ず修得しなければならない必須条件なのだということです。
そのことをしっかりとわきまえて、赦しの実践をしていきましょう。