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コースの学びが深まっていくとき、この世界をどのように見ていくようになるのか?

この世界を「教室」とする


コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくにつれて、やがて私たちはこの世界を「教室」として捉えていくようになります。

「教室」とは、つまり、この世界を目覚めていくためのレッスンの場として捉えるようになるということです。

この世界は自我が作り出した幻想世界なわけですが、その目的を変えることによって、この世界の捉え方がまったく変わるわけです。

その実践は、この世界をただやみくもに幻想として否定していくようなものとはまったくちがうということです。

私たちはこの世界を使って、ここが天国であることを思い出していくことを訓練していくのだということを知っておきましょう。

コースの言い方をすれば、この世界は赦しを修得していくためのレッスンの場だということです。

ただし、私たちはこの世界をそのようにはまったく見てはいません。

この世界を「教室」として見ているどころか、私たちはこの世界の中に攻撃の対象(戦うべき敵)ばかりを見ています。

あるいは、生き残っていくためのサバイバルの世界であるかのように、この世界を知覚しています。

この世界がまるで「戦場」となってしまっています。

そのことがコースの学びによって自覚/認識されていくにしたがって、この世界をこれまでとは違った目的で見ることを望むようになるといえます。

つまりは、そのような知覚の仕方ではけっして安らぐことがなかったわけで、これからもその知覚のままであり続けたいのだろうか?と自らに問うなら、もはやそれをOKとはしない、となるということです。

そう、これまでの自分はこの外側の世界に、この人生に振り回され続ける被害者になっていた、ということを自覚/認識していくわけですが、そこからが本当のコース学習の歩みの第一歩ははじまるといえましょう。

私は自分が見ている世界の被害者ではない。(W-p1.31)

奇跡講座/中央アート出版社

動揺したときこそがそのための訓練の機会であることを思い出していくこと。

それが、この世界を「教室」とするということであり、コース学習者の私たちはそのように捉えていくことが求められているということです。


この世界を使って、この世界を超えていく訓練をしていく

この世界を「教室」としていくとき、目に映るものすべて(兄弟/世界)、人生に起こってくるすべて(出来事/森羅万象)、そのすべてが「投影」に気づいていくためのきっかけ(レッスン)として見ていくようになります。

「投影が知覚を作り出す」(T-21.In.1:1)のですから、「投影」だと気づいたなら、それは自我を教師としているということであり、その訂正として「聖霊を教師として選び直す」ということをしていくわけです。

そのための第一ステップの実践としてとても有益なのが、ワークブックレッスン5を適用していくことだといえます。

私は自分の考えている理由で、動揺しているのではない。(W-p1.5)

奇跡講座/中央アート出版社

私たちは、本当は、外側の世界が原因で動揺しているのではないということです。

つまり、それは、外側に知覚しているものはすべてが「心」の投影であると気づいていく訓練なのだということです。

そのようにして「投影」に気づいていくことを訓練していくにしたがって、「自分は被害者である」というところから次第に抜け出すことができるようになっていき、内側を直視することができるようになっていきます。

そして、内側にあるものを平安の教師(聖霊)と共に見る経験を重ねていくことによって、そのすべてが自我が作り出した虚偽(嘘)であることが認識できるようになっていきます。

その実践(訓練)をしていくにつれて、外側に世界はないことも、外側に他者はいないことも、この世界は心(決断の主体)が見ている夢にしかすぎないということも、体験的に理解されていくことになります。

いわゆる、そのための実践的手段を、コースでは「赦し」あるいは「奇跡」と呼んでいるということです。

つまり、コース学習者の私たちは「赦し」の実践を通して、すべては「心」である自分の責任であるということや、すべては心の自分の側面(断片)を見ているだけ、ということを体験的に理解していくだけでなく、自分には選び直す心の力(決断の力)があることを思い出すことをしていると言うことができます。

ワプニック博士が解説する言葉を使っていえば、「心(の決断の主体)」である自分を思い出していくことをしているということです。

心(の決断の主体)」である自分を自覚していけばいくほど、この世界が、この人生が、赦しをしていくためのレッスンの場、つまり、「教室」として捉えるようになっていくといえます。

この人生の目的、この世界の目的が変わるということです。

それは、レッスンによってもたらされる赦し(愛)の体験を重ねていくことで、ますますそうなっていくといえます。

いわゆる、この世界を超えたところの真の自己(神の平安/愛)を思い出していくことだけを望むようになっていくということです。

私が見ているこの世界には、私が望むものはない。(W-p1.128)
この世界を超えたところに、私の望む世界がある。(W-p1.129)

奇跡講座/中央アート出版社

そのようにして、コース学習者の私たちはこの世界を使って、この世界を超えていくことを体験的に学んでいくのだということを覚えておきましょう。


コースを学んでいるその目的を忘れないこと

このコースは目的で見ていくことをしていくのだということを覚えておきましょう、

それは何のためのものか?

と、いつも自分に問いかけていくことであり、そして、自我の目的ではなく、聖霊の目的で、この世界を見ていくことがその訓練となっていくといえます。

そのためにまずは、自我の目的でこの世界を見ている自分を自覚していくことが、このコースの歩みの第一歩となります。

自我の目的で見るなら、この世界はサバイバルを生き残っていくための「戦場」であり、同時に、生きるに値しない無意味な「牢獄」です。

ただし、自我の目的から聖霊の目的へと、その目的が変わっていくなら、この世界は「教室」となるのです。

自分が居るここ(この世界)が、赦しをしていくためのレッスンの場となります。

この世界を、この人生を、どちらの目的で見るのか?

実践においては、いつもその選択となります。

ここを「教室」であることを思い出していくその秘訣は、

自分は何のためにここにいるのか?
自分はだれなのか?

いつも毎瞬毎瞬、そのことを問い続けていくことです。

ここ(この世界)にいるその目的を忘れないことです。

ここが「教室」であることを思い出すとき、もはや自分はこの世界の被害者ではなくなります。

その自分とは、個人の肉体の自分ではありません。

その自分とは、この世界の夢の外側からこの世界の夢を眺めている者です。

その自分がコースを学んでいるのであり、
その自分がコースを実践しているのであり、
その自分が、自我か?聖霊か?を選択しているのであり、

その自分がこの世界を「教室」としてレッスンしているのだということが、学びが深まっていくにつれてますます自覚されていくようになるということです。

このコースの霊性の道を歩んでいく上でもっとも大事なのは「目的」なのだということ、そして、コースの実践は「目的で見ていく」ということを覚えておきましょう。

そう、

このコースの学びの目的は何か?

いつも、その目的を忘れないようにしましょう。


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