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雑誌「幕間(まくあい)」昭和33年5月号 マクアイ・リレー対談「中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談」①

とき:4月7日・ところ:新橋「金田中」

おかるの扮装で初対面

写真 2020-06-22 22 08 01

司会(以下「司」) 先生の歌右衛門さん贔屓というのは有名ですけれども、いつ頃から、

三島(以下「三」) とにかく楽屋に伺うようになる前が随分長いんですよ。それで僕が芝居を初めて観たというのは、中学に入った十三の年なんです。羽右衛門と六代目の「忠臣蔵」の時。小学校の間は、芝居を観ると教育に悪いというので、観せてくれなかった。それで初めは俳優さんの名前も良く知らないし、歌右衛門さんのことも、余り印象に残っていないのですが、その後、例えば「鏡獅子」の“胡蝶”に梅幸さんと一緒に出ていらしたのなどは、拝見しているわけですよ。それでだんだん贔屓が出来て、いろいろ踊りの役なんかで、きれいだなと思っていた。いつから本当にファンになったのかしらね、やっぱり戦争が済んだ後の、東劇の「千本」の道行かもしれないな。

歌右衛門(以下「歌」) 高麗屋さんの時ですか。

 そうそう、高麗屋さんの忠信でね。他には「寺子屋」とか、吉右衛門の「佐倉宗五郎」が出たでしょう。あの時の「道行」は一番決定的でしょうね。時代が転換して、本当に新らしい時代になって、みんなが華やかなものに憧れていた時に、その憧れていたものがパッと出たという感じがしたのが、あの「道行」の静でしょうね。それからはもっぱら成駒屋さんを観に行くというふうにしていて、僕は初めは楽屋には絶対行かない、といっていたのですよ。舞台のイメージだけでね。そのうちにある時「文芸」という雑誌が「成駒屋さんに会ってくれ」「それなら扮装したところでお目に掛かりましょう」といって、「道行」のお軽の紫の矢絣着て、かつら付けたところに行って、歌右衛門さんと握手したかなんかだったな。

 いつ頃ですか。

 襲名してからですね。「歌右衛門丈と会う」ということだったから……。それまで盛んにワイワイ観ていたのが、三越劇場時代です。それからだんだん親しくしてもらって、「地獄変」なんか書いたでしょう。「鰯売り」とかね。僕としては、あくまでファンの気持でというのが建前で、楽屋に行っても、ためにするために楽屋に行きたいとは思わないな。いわゆる劇作家としてでなくて、全くファンの気持で部屋に行かしてもらったし、友達にしてもらう、将来もその気持で付き合いたいのです。

 先生はやっぱり舞台のイメージを壊したくないという……

 そういう気持だったのですがね。というより、歌舞伎の楽屋というものに、世間の人が持つような恐怖心があったから。つまりどういう不思議なところか、どういう特殊なところか、とても怖いような気がしていたのです。成駒屋さんに限って、そういうイメージが裏切られるということはなかった、と思っていますがね。僕が「中村芝翫論」を書いたのは、なんという雑誌だったかな、今は勿論ない雑誌だけれども、あんたの芝翫時代でしたね。

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三島由紀夫がほとんど喋っていますが、もう少しすると歌右衛門丈もエンジンがかかってきますのでもう少々お待ちくださいw

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