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父と義母。

私は父が怖かった。恐ろしかったように思う。それは今も変わらない。

私が幼い頃の父は常に怒っていたように思う。今では渋くて良い声をしていると言われる私の声。それは父譲りの物で、幼い私に父のドスの効いた低い声色は怖かった。

彼の教育は苛烈であった。「一度口で言ってわからないなら体に覚えさせる」という肉体言語での教育は勿論手加減していたものであったとしても暴力的であった。冬に裸足で外に追い出された事もあった。

何処かに連れて行ってもらった記憶もあまりない。私ら(兄とか)が遊びに連れて行ってもらった後、「疲れた」というと烈火の如く怒っていた。貴重な休日を割いたのに疲れたと言われたのが腹立たしかったのだろう。

私と同い年の兄はよく喧嘩をした。くだらない理由ばかりだったが兄弟はそんなものだろう。最後には兄よりもずっと強い拳骨で喧嘩は終息していた。

父は工場で働いていた。小学生の頃、夏休みの自由研究の工作は殆ど父がやっていた。とても器用な人だった。昔は板前をしていたらしかった。弟が生まれる前に炒飯を作ってもらった記憶しかないが。

そんな父は私が小学6年生の頃不倫が発覚した。激怒した母は度々父が帰ってきても家のチェーンを締めて父を締め出していたが外で怒鳴り続ける父が恐ろしくてしょうがない私や兄が迎え入れていた。家に入れても父が優しくなるわけでもなく母と怒鳴り合うだけだった。

中学1年の時父は家を出た。不倫相手の家に住まう事になった。家を出る前日の夜中に父といったドライブで父は「母さんと弟を守ってやれ」「お前なら大丈夫だ」と言った。随分と身勝手極まる男だった。


高校1年の頃、母の蒸発と共に父は家に帰ってきた。「俺が悪かった」そう言っていた。直後2ヶ月は夜中に不倫相手の家に帰っていたがある日父に軽トラに乗せられて会ったことのない不倫相手の家に連れていかれて引っ越しを手伝うように言われた。「今日から一緒に暮らすから」そう言われて紹介された人は父より一回りは年下の女性だった。母の方が美人だな、と思った。あとベッドを運ばせるのは頭がおかしいなと思った。こっちは思春期だぞ。

そしてこの不倫相手の女性が私の義理の母となった。

この義母が曲者だった。潔癖症の気があって学校やらから帰ってくる私や兄を汚いものとして扱ったり、気に入らない事があると金切り声をあげて怒るヒステリックな人だった。相性は最悪だった。

帰宅が20時を過ぎるとシャワーのみ、週に4日以上は家で夕食を食べる事、足音を立てない事、といった様々なルールが出来た。シャワー云々はどうでもよかったけれど夕食や足音はキツかった様に思う。心情的にも味覚的にも美味しくない食事を美味しいと言って食べないとブン殴られるのだ。冷凍食品や出来合いの物を美味いと言うと不機嫌になる為美味いと言うのは味噌汁が鉄板だった。足音は殺して生活していた。夏と冬以外は屋根に登って足音が聞こえない様にしていた。


義母は子供を産めない人だったらしい。小学生の弟の前で、私達兄弟の前で父と義母は小さなヌイグルミに名前を付けて可愛がっていた。夕食の席には席を設け、日曜日の夜にはヌイグルミを抱えて朝の特撮ヒーローの録画を酒を飲みながら見ていた。40のオッサンと30のババアが。絵面が地獄過ぎる。

私に反抗期というものはこなかった。友人と夏祭りの出店でアルバイトしたり、父親からタスポをガメた友達にタバコを買ってもらったり、酒を飲んだりはしていたけれど、父親に反抗した事は無かった。元々の穏やかな性格もあるが幼少の頃から刷り込まれた恐怖は簡単には覆せなかったようだ。18になったら家を出る。父もそう言っていたのが救いだった。

兄は父に似たのか感情的な人間だった。父に殴られても美味いとは言わなかったし義母には拒絶的どころか好戦的な態度を取っていた。度々父と怒鳴り合っていた。兄は美味くない食事を美味いと言い、ヘラヘラと波風を立てない私とは真逆だった。



兄は父と義母が大嫌いで母が好きだった。

弟は母と義母が嫌いで父が好きだった。

私は全員が嫌いだった。

全員が等しくどうでもよかった。兄も弟も。

最低な息子で、最低な兄弟だった。


18になり、高校を卒業して3日後、私は家を出た。荷物はボストンバッグで事足りた。

父は餞別だと言って1万円をくれたが私は突っ返した。

これが精一杯の反抗だった。


家を出た後父からはマメに連絡が来ていた。ヘラヘラしていた私とは快い関係を築けていたと思っているらしい。義母の料理を食べに来いと言われているが家を出て6年経つが、一度も行ったことがない。

いつか行ける日がくるのだろうか。正直こなくてもいいけれど、何もかも許せる日が来たら行こうと思う。美味いとは言ってやらないけど。

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