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夢を持たされて。

「将来の夢は?」

幼稚園、小学校、中学校、高校とまるで持っていないとオカシイかのように、当然のように聞かれていた。

周りのせいにするわけではないけれど私は何の疑問もなく将来の夢を描いていた。

幼稚園の時は大工さん。小学生の時は社長。(どこか斜に構え出したのか。精一杯の未発達なユーモアが痛々しい)中学生の時は余裕が無く、将来を考えていたのか工場で働くサラリーマン。高校の時は少し余裕が出てきたのか小説家だった。

今にして思えば中学生の時の夢はガッツリ叶っている。あまり嬉しくない。

高校の頃の夢は叶っていない。これもあまり悲しくはない。


高校生の頃、クラスメイトとの薄べらな交流は退屈で、本当に仲の良かった3人と読書以外には上手く傾倒できなかった。(十分な筈だがどこか物足りなかった)

恋愛をするには自己承認が足りず(今も足りてないが)、オシャレや音楽には金銭的な余裕の無さと興味が持てなかったせいで友人と一緒に居ない時は小説ばかり読んでいた。自分の読書歴は長く、自分が小説家になりたいなと思う事は特段不思議な事ではなかった。

授業中ノートにプロットやアイデアをまとめてたり、小説を書いて新人賞に出したり、マンガ家を目指している友人とよくこんな話はどうだろうか?なんて話をしていた。確かに本気だった筈だ。新人賞には引っかかりすらしなかった。


社会人になってからは最初のうちこそ小説を書いていたけれど金銭的な余裕によって音楽やオシャレなんかの他の娯楽に傾倒したり、毎日12時間の仕事や1週間ごとに切り替わる昼夜勤に忙殺されているうちになんとなく小説を書くこと、読むことから離れてしまった。気付けば疲れたし明日も朝早いからとか、なんてだらしなく理由にもならない理由を探していた。

社会人になって6年。今日、ふと思い立って高校時代に小説を書いていたサイトを探して自分の書いたものを読んでみた。拙い文章と自分にしかわからない熱量がそのページには詰まっていた。


夢を持たされて。なんて被害者ぶり過ぎだ。自分で捨てたのに。その上捨てきれていないのが更に輪をかけてみっともない。


本気で目指していたのか?本当に食っていけると思っていたのか?自分に才能はあるのか?そんな自問に価値は無い。「人の夢と書いて儚い」「夢は覚めるもの」なんて言葉遊びも好きじゃない。過去の自分へのアポロジャイズも過去の自分とのコンプロマイズにも意味はないのだ。

今日日インターネットやSNSの発展で全世界の人間がクリエイターになれる。これは幸か不幸かではなく幸に決まっている。


もしかしたら明日、私は小説を書いているかもしれない。

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