2022/10/04

5時だ。4時に起きた。

なぜこの時間帯に起きているかというと、ダイエットしすぎて腹が減っているからだ。昨日も4時に起きた。
今まで色々なダイエットを試してきたけれど、どれも効果が無いとみて、「消費カロリーが摂取カロリーよりも多ければ痩せる」という(単純化されすぎて間違っている)黄金律を思い出し、運動ができなかった日はロクにものを食わないという超感覚派食事法を採用したところ、心身ともにバチクソ調子悪くなった。

絶対にやるな。自棄のやん八でもやるな。僕は自棄半分、黄金律への信頼半分で実施してしまった。たしかに体重は10kg落ちたが、それよりも大事な「充実した生」をこの2ヶ月間失ったことを考えると、損だったと思う。

昨日久しぶりに米を食べたところ、人生はなんて素晴らしいものなのだろうかと感動した。これが幸福というものの正体だ。

「幸福とは」みたいな話、以前はとても好きだったんだけど、最近避けるようになった。嫌いになっているまであるかもしれない。抽象的で人類全体にかかわるテーマの議論は、無責任な態度で挑むほか無い。
僕は無責任と思われたくないという思いで30年を過ごし、あまりに思いすぎたせいでメンタルをこじらせ、まあ無責任に生きているのだが、そうした気質や体調のこともあって、そういう度胸をこの数年間でめっきり失った。

つまらん人間だと思われてもいい。
社会に対しては、「自分がいままで"マジックソルト"と呼んでいた調味料が、実は"クレイジーソルト"で、味も全然違うらしくて、2年間ぐらい全然気が付かなかった」とか、「TRPGのキャラの名前つけるときにキラキラネームにしたくなる親の気持ちが分かった」とか、「となりのベランダからパリパリになったセミの死骸が流れてきた」みたいな、ローカルで差し障りのないことを、持てる精一杯のクソ雑魚レトリックで彩った程度の情報を発信できれば満足なのだと気が付いたのだ。
鋭く社会を批判する能力なんて必要ない。
インフルエンサーのように「抽象的で人類全体にかかわるテーマ」を扱いたくなくなった理由はそこにある。

それに、幸福については随分と本を読んでしまったので、他人の受け売りだが、ある程度の答えめいたものを見つけてしまっている。
「幸福とは、変化の量である」ってやつだ。

幸福についての記述は「規定できない」以外の全てが胡散臭く思えるが、この「変化量である」というものが、一番しっくりくるし、親切だ。恋愛や結婚は3年で精神的な高揚を失うし、酒も飲み始めが一番うまいし、仕事は昇進が決まったり給料が上がった瞬間が一番嬉しくてあとは地獄だ。
それに、個人的に、ごくごく最近、身に覚えがある。
そう、米を食ったときのあの幸福感。
もはや、僕はあの幸福感を味わうためにダイエットをしていたのかもしれないと錯覚するほど、シナプスのダムが決壊し、ドーパミンがだくだくと分泌され、脳内に炸裂し、見事、僕は破裂したのだ。
多分筋トレとか趣味の人は、あえて自分をきつい状況に追い込むことによって、無から幸福を生み出そうとしている。自宅と職場の往復というルーティンでは代わり映えのしない生に、スパイスをひとつまみどころか5リットルくらい入れている。

しかし、わざわざつらい思いをしたくはない。僕はこれから食事を改める。これは急務だ。
毎日しっかり米が食えて、それなりに運動しながら、なだらかに体重を落とすことと精神のバランスを両立させる、穏やかな日常を手にする方法を考えるのだ。考えるまで、僕は蕎麦とキムチと納豆とゆで卵とブロッコリーと豆腐と鶏胸肉しか食えない。

何としても脱したい。幸福追求からは逃れられない。

今日からnoteをはじめます。
こんな感じです。
よろしくお願いします。

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