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共感の世界から離脱して、見えること。

仕事をしていると、なんとなく、「人に共感すること」「人から共感されること」が大切な気がしてしまう。特に、私は、対人の仕事も多いので、そうすると、『共感力があること』は、人を集めたり、人と関わるのに、必要な1つの要素な気さえする。でも、「そもそも、本当にそうなのか?」を、ここ半年くらい、ずっと考えていた。で、そこから、抜け切れずに、「共感してもらえるかどうか」とか、そんなツマラナイ基準で物事を考えていたりして、「私って、ツマラナイ女だな」と最近思っていた。

「そもそも、あさみさんは、共感力は低い」

と言われた。自分でも、そう思っていた。生まれてこの方、人に共感したことがない。小さい頃の記憶は、ほとんどないけど、人に話しを合わせるのが苦痛だった。人と話すことは楽しいことではあったけど、「おもしろい!」って思うほどのことではなかった。その、「おもしろさ」を探すために、私は、数多くの場所に住んだし、海外にも行ったんだと思う。

それでも、今、フリーになって4年くらいで、最初は、「営業とかやってたし、人の話しは、聞けるもんなー」という理由で、コーチングのセッションをやっていた。そこでは、傾聴すること、寄り添うことが大事だと教えられ、文字通り、傾聴して、寄り添った。結果、ものすごく疲れた笑


それから、ただの、「会話式」にした。前に比べたら疲れることはなかったけど、どこかで、「人に迎合してる感」は、ずっとあった。人の悩みは、理解はできる。私もずっと「地球って生きづらい」と思って生きてきたので、生きづらさを持った人や、特有の繊細性を持ち合わせた人の話しなんかは、「あー、そうだよね」と、なる。でも、「同じ感情の共有」はできない。それでも、なんとなく、自分の中で、「共感しなければいけないんじゃないか」という気持ちが拭いされず、多分、無意識に、4年くらい、些細な迎合を繰り返してきた気がする。

なにぶん、私も、「人から理解されない」「どうせわかってくれない」と思って生きてきたので、だからこそ、「人のことを理解しよう」という気持ちがあったと思うし、それが強くなりすぎて、「共感」という感情に変換されたんだと思う。でも、やっぱ、人には、共感できない。


それと同時に、「自分の企画やサービスに人を集める」という仕事のスタイルのため、どこかで、「人に寄っていかないと感」もあった。まぁ、それでも、側から見ると、よくわからない変な企画を繰り出してたとは思うけど、それでも、「人にわかってもらうレベル」まで落とし込んでいた。その微調整を大分、事細かにやっていた。

あまりに事細かすぎて、完全に、自分が良ければ良いくらいのものだったけど、それでも最近、それに限界を感じていた。自分が見ている世界の抽象度を崩れない程度に降ろして、それでいて、他の人から見ても、高さの変わらない抽象度と奥行きの深さで物事を感じ取れるようにするくらいのラインを保った企画をやるのは、めちゃめちゃエネルギーがかかる。その準備に、時間もかかる。


企画の根底には、この地球の美しさや、自然の尊さや、生命の豊さを感じ取ってほしいとか、その人独自の物の見方に気付いて、その世界を楽しんでほしいとか、そういう気持ちも、もちろんあったけど、同時に、「ねぇ、これくらいの深さで、世界を見てるよね?」という、共有を超えた「強要」が多少あったと思う。物の見方なんて、人それぞれなので、余計なお世話感甚だしいが、「人に理解されない」という感情の裏返しだったとも、思う。


「自分が見ている世界と同じように世界を人に見てほしい」

ずっと、どこかで、そう思っていて、でも、人は同じような深さで物事を見ていないと知っては、ショックを受けるというのを繰り返してきた。その共有の仕方を間違えると、ただの「エゴ」になってしまう。私が嫌いな「押しつけ」になってしまう。集団やコミュニティ、社会の中に、なんとなく、蔓延っている「私たちって、そうだよね」「同じだよね」という無言の圧力は、とてつもなく、息苦しい。これ以上、何か企画をやるのは、違う気が、ずっとしていた。


「あさみさんのその感覚と同じように物事を見てる人なんて、いない」

とこの前、バッサリと言われた。「え、そんなことはない!」と思ったけど、同時に、「やっぱ、そうなんだ」とホッともした。押しつけにも似た共有をしなくても、別に、良いんだと思ったら、楽になった。きっと、「歩み寄り」「寄り添い」は、知らぬ間に、自分をも苦しめていたんだと思う。


人に寄り添ったり、社会に歩み寄ったり、誰かに共感したりすることは、私にとっては、「人や社会と上手くやれている感」を感じられる気がしてたんだと思う。私も、同じ人や社会の一部で、そこから外れていないと安心したかったんだと思う。「みんな同じ」を嫌う私は、誰よりも、「みんな同じであること」を切望していたんだとも思う。


最近になって、また、生きやすい時期がやってきた。生きやすさと生きづらさは、いつも、交互にやってくる。それでも、良いと思えたことが大きい。人は、負の感情やネガティブなことを、ゼロにしようとする。毛嫌いをして、見なかったことにする。無理やり変換させて、ポジティブにしようとする。

でも、そこに歩み寄らず、それさえも生かそうと思えた時、めちゃめちゃ気が楽になった。生きづらいまま生きられることに、なぜか、少し、ほっとした。生きづらさを生きやすさに、変えなくても、別に良い。物事にも、世界の見方にも、感じ方にも、良い悪いはなく、それさえも、その人特有の感覚なのだから。

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