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同じ展開で主人公を入れ替える〜スラムダンク映画と漫画の山王戦

このnoteはスラムダンクのネタバレを含みます。
漫画と2022公開映画を見たら読んでね。


映画『THE FIRST SLAM DUNK』を見た。
今までの人生スラムダンクに触れずに生きてきたが、結果すっかりハマってしまい、原作漫画をソッコーで読んでもう一回映画を見直すぐらいに良かった。
ずっと心の底にへばりついていた、思春期の隠キャ生活から来る『球技やってる陽の者へのコンプレックス』がおかげですっかり無くなった。ありがとうスラムダンク。


それで、原作漫画の主人公はみんなご存知桜木花道なんだけど、映画ではPGの宮城リョータとなっている。
映画で描かれている山王戦は原作漫画のクライマックスであり、主人公桜木花道の集大成が詰まった試合。そんな試合で、どうやって主人公をリョータに入れ替えて描いたのか。
映画を見て、原作漫画を読んで、そしてまた映画を見た時に気がついた、主人公、そして、物語のテーマの入れ替え方を記しておきたいと思う。

『これは何の物語なのか』チェーホフの銃

まず、1番の違いは『リョータの過去の回想』の存在、というのは誰も否定しないと思う。
映画の入りからして小学校時代の沖縄から始まり、兄とのやりとりの後、現在の山王戦が始まる。
このことから
「過去を回想して設定を振り返れば、それで物語の主人公になれる」
と結論づけるのは早計だ。

思い返して欲しい。原作漫画では驚くほどに……誰の過去も家庭環境もほぼ描かれていないことを!

せいぜい3年の赤木と木暮、三井のバスケへ賭ける思いを振り返るぐらいで、主人公の桜木といったら中学生のときに振られまくったことぐらいしか過去はわからない。
家庭環境なんかマジでわからない。桜木はひとつ、大きな事件があったことが明かされるが、それも“必要になったので明かされた”にすぎない。
桜木花道のライバルの流川に関しては本当に何もわからない。なんでそんなにバスケうまいん??


それでも、原作漫画の主人公は桜木花道だし、ライバルは流川楓である。
だから「過去を回想して設定に深みを持たせれば主人公になる」というのは違う。


重要なのはチェーホフの銃だ。


チェーホフの銃(チェーホフのじゅう、英語: Chekhov's gun)とは、小説や劇作におけるテクニック・ルールの1つ。
ストーリーに持ち込まれたものは、すべて後段の展開の中で使わなければならず、そうならないものはそもそも取り上げてはならないのだ、と論じた、アントン・チェーホフ本人の言葉に由来している。

つまり、物語に必要なものしか登場させてはいけませんよ、ということで、スラムダンクはこれが異常に徹底されている。
映画は物語の主題に必要だから過去を回想している。代わりに、原作漫画であった一部のシーンやセリフをカットしている。
カットされているのは、桜木花道が活躍する前半のシーンと、背中の負傷により倒れてから立ち上がったときの重要なセリフである。

原作漫画の主題とは『素人・桜木花道の成長物語』である。だから描くべきは現在だけで良い。
過去の話は必要ない。試合の中で成長を描き出せば良い。

そして映画の主題は『兄の死に囚われた宮城母子の再生』である。
だから過去の回想は必須である……が、桜木の成長を表すシーンは必要ない。チェーホフの銃となってしまうのですね。

なので、ばっさりカットである。あわれ花道。


『俺は今なんだよ!』過去を脱却したリョータから現代を生きる花道へ

「原作漫画の主人公が活躍するシーンを削ればそれで主人公が入れ替え出来る」かと言えば、もちろんそうではない。
それだけでは、なんかギクシャクした手触りになって観客の不満も爆発だろう。
それにちょっと活躍するシーンを削った……映さなかったところで、試合の決定打は花道のブザービーターである。試合の展開は変わらない。

うまいのは、試合の流れとリョータの過去の回想を噛み合わせているんですよね。
流れの良かった前半はキャラクター紹介使いつつ(前半はスピーディーに湘北全員の見せ場がぽんぽん続く)
残りはカットして、ソッコーで苦しい試合になる後半から見せることで、辛い試合とリョータの苦い過去と同期を計っている

そして、苦しい試合にキャラクターが見せ場を作ると、そこからそのキャラクターとリョータの思い出が回想される。
これもリョータが出会った順に行われて、過去から遡っていく、と言う流れは変わらない。
(流川だけ思い出がなさすぎて試合前日になってるの草)

試合の流れと回想シーンがあっている。
これにより物語の主題がハッキリするので、なおさら前半の桜木花道の活躍はチェーホフの銃になってしまうのですね。

そして背中の負傷をキッカケに桜木に照準が当たる頃には、リョータは兄の死から脱却し、試合でもフルコートプレスディフェンスを抜いており、過去を巡る物語の主題は完成、残りは現在の試合だけになっている。

それは原作漫画の主題と同じであり桜木花道が言う『俺は今なんだよ!』と綺麗にリンクするんですね。

それから桜木の活躍が描かれ、原作漫画と同じ物語の主題に収束……今を生きるんだみっちゃん〜ならぬ、リョータ〜となって桜木のブザービーターで終わっても何らおかしくない感じになるわけです。


主人公を映し出せ:カットバックによる視線誘導

桜木花道の活躍で試合が終わろうとも、映画の主人公は宮城リョータである。
リョータの後日談で映画が終了したからではない。それは視線誘導にある!!

これが本当に細かく丁寧に入れられていて、誰かが活躍するとき、ほぼ必ずリョータのカットが入るんですね。

それは、花道渾身の左手は添えるだけ合宿シュートがブザービーターになり、ライバル・流川楓と激アツのハイタッチを交わした時でさえ、リョータのカットバックは入れられている。

これにより、リョータ以外のキャラクターの活躍は『主人公が目撃したもの』になり、観客は主人公の目線を通して物語を見ることになる。


活躍する者が主人公なのではない。視線を観客と共有する者が主人公なのであるッ!!
カットバックは、映画において誰の視点なのかを示す重要な要素なんですね。


漫画は映画である

本当に素晴らしい映画で、特に試合のラスト30秒は息を呑んだ。こんな、単純な興奮で映画を楽しんだのは久しぶりで『バスケットってこう言うところが面白いんですよね〜』が詰まっている映画だった。
映像のマジックによって、バスケかぶれにしか感じ得ないのであろう試合の面白さ、展開により時間が3倍にも半分にも感じる感覚を、隠キャのわたしも共有できたのである。

そしてその魔法は漫画も持っている。
コマ割りというのは実際、ほぼ映画のカットバックやモンタージュと同じようなものだ。
漫画がめちゃくちゃ上手い井上雄彦は、映画監督としてもめちゃくちゃうまかった……

ありがとう井上雄彦…………

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