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思ってもないことを考える夜もある

よくさ、思ってたんだよ。こんなに愛しているのにって。君の為にプレゼントもした、君の為に大雨の中傘を携えて迎えに行った、君の為に好きな料理を頑張って作ったのにって。自分がしたことしたことに囚われて、なんで返してくれないんだろうって嫌になった。恩着せがましいだろうけど、多分恋愛をした人の多くが一度は思ったことがあるんじゃないかな。

一度言われた。愛には人それぞれ大きさと形があるって。さてはベクトルか?なんて思ったりもした。例えば、愛の受け皿が丸い人に三角形の愛を渡してもうまく受け取れないだろう。愛のキャパシティが小さい人に大きな愛を渡しても、溢れかえって溺れてしまうだろう。大きなキャパシティに小さい愛を渡しても、それは愛として受け取られないだろう。そんなことを言われた。確かに、言いたいことは理解できる。でもさ、愛ってそういうもんじゃなくないかってずっと思ってた。だったら、互いの愛の形を揃えていけばいいし、大きさも調節していけばいい。なんなら建築士の資格でも取ろうか?なんて本気で思ってた。

でもさ、多分そこって変えられない。変えようとしても変わらない。人間の可変部分じゃないと思う。最近はそう思うようになった。思いやりが寄り添い合うことが大切なのは勿論のことだ。でも多分、根本はそこじゃない。本質的な理論的なものはそうじゃない。一度、考えてみたら簡単だった。極端に言えば、ストーカーって怖い。でも、よくよく考えればそれは愛が行き過ぎたってだけで、そんなに嫌悪する話じゃないと思う。相手に実害を与えたりしなければ。インスタのストーリーをこまめにチェックするとか、FF欄を探ってみたりとか、ネットストーカーぐらいならやってる人も多いんじゃない?問題なのは、きっと主体の行為に対して、相手が体験で終わってしまうことなんだと思う。

人は基本的に行為のやり取りで繋がりを得る。欲しい商品やサービスのために対価を支払うみたいな。そこには提供する者とされる者の行為のやり取りがある。上司に命令されて仕事をするのも、言ってしまえば命令と服従の行為のやり取りだ。社会理論的に言えば、人との繋がりなんてものは行為のやり取りでしかない。だから、縁の切れ目は金の切れ目なんて言葉があったり、利害関係なんてものが存在する。恋愛も人との繋がりの一種で、行為のやり取りに過ぎない。でも、他の社会的関係と違うのは、そこに体験が介在するってところだ。さっきのストーカーの例を使うけど、一方は愛が行き過ぎた行為で、相手からすれば「毎日プレゼントが送られてくる」とかの体験で終わる。それに対しての行為は発生せずに、体験がストッパーとなるから関係として美しくない。これは極端な例だから理解しづらいかも知らないけど、この構図は普通のカップルにも当て嵌まる。相手が喜ぶと思ってしたことでも、相手を怒らせてしまう結果に終わることって多々あるじゃない?言いたいのはそれのことで、相手を思いやっての行為だとしても、相手からの行為の前にそれは体験として相手に残る。その体験が嬉しければ恩返しをしようという行為につながるけど、望まないものであれば行為にはつながらない。愛し、愛し合うという美談は何しも愛があれば成立するものじゃない。行為と行為のやり取りが綺麗に成立するか、もしくは体験と体験が上手く混ざり合う必要がある。性行為は至ってシンプルで、快感という体験が混ざり合って、行為が綺麗に成立する。シンプルな分、構造的に落とし込んでも分かりやすい。

人が愛し愛される関係を作るためには、行為だけでなくて、体験の混合が必要なのだ。だから、恋愛は難しく、そこに儚さを孕む。好意なんてものがいつまでも持続はしない、常に燃焼を続ける感情であるから、さらに難しい。恋愛は一時の激情を網膜に焼き付けたまま、その愛を信じ続けることでのみ成立するのだろう。そのあとは、行為と体験を確かめ合う精神遊戯だ。

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