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陽だまりのなかできらめく餃子をみる

まだ2月だというのに、すっかり溢れでてきた春の陽気にうつらうつらしている。

最近はずっとあたたかい。お昼休憩の時間になると、上着を羽織って文庫本、財布、携帯とカメラをポケットに潜めて自転車に跨る。両手でふわっと掴めそうなあたたかい風が頬をなでるのを感じた。

東京の夜からひかりが消えてしまったから、陽だまりのなかで風切ることにした。全身が、まばゆい陽をいっぱいに吸い込んだやさしい風に包まれる。
自転車をこぎながら、ゆっくりと鼻から春を吸う。太陽と花から漂う、ほの甘い香り。
他所の家にある木戸のとなりに、陽を透かすほど無垢な白い梅が咲いていた。思わず自転車を漕ぐ足を緩めると、中央に向かってぽわと淡く色めいた先で、蜜蜂が身を丸めている。

なにもしなくとも満ち足りた心持ちになる陽気に、ずっと春であればいいのに と浮かんだ甘い考えをすぐに霞める。
春の陽気同様、無敵と言わんばかりの夏の夜の風も、ものさみしく儚い夏と秋が入り混じった空も、きれるように澄んだ清々しい冬の朝も、季節が巡るから愛おしいのだった。

何度も、わざとらしいくらいの深呼吸をしながら空を仰いだ。目的地の近くまでくると、香ばしく、「おいしい」の滲む風が鼻孔をくすぐる。深く呼吸をしたせいで、まっすぐ食道の奥まで届きそうだ。

自転車を停め、そわそわしたきもちを押しとどめながら、戸を開ける。きっとわたしが生まれるずっと前から、地元の皆に愛されてきたであろう中華やさんだ。

入って真正面の棚に少年ジャンプが不規則に並び、左上には、画面と同じくらいの奥行をもったテレビから、遠くの笑い声たちが聞こえる。知ってる旬の顔が並んでいるはずなのに、どこか昔の話をしているように感じる。遠く、ずっとちいさかった頃に、いつか訪ねた親戚の家を思い出しているみたいだった。

陽の差し込む、入口に近いカウンター席に座る。

「いらっしゃい」  
コトン、と水を置いて店員さんがほほえむ。マスクをしていても、声のトーンと目の温かみでわかる。「ありがとうございます」と言いながら、すきだなあ、と思った。

ちらりとメニュー表をみた。ラーメン、タンメン、かたやきそば、天津麺、酢豚、カニチャーハン、ワンタンスープ……。ああ、全部たべたい。

「すいません。野菜炒めライスセットと餃子をください」

持ってきた文庫本のスピンをはさんだページに手をかけて、やめた。わたしが座った席の目の前で、ご主人がフライパンを振っている。じっとみて待つことにした。

正面に立てかけたメニュー表にもう一度目をやる。
ウーロンハイ、レモンサワー、日本酒、生ビール…の言葉たちがずっとわたしを見てきているのだ。(わたしが見ていただけかもしれない)
休日であれば、席についた瞬間に声をあげている。「生ビールください!」  
休日中華ならぬ、休憩中華なのだから我慢するしかない。そう言い聞かせることにする。

料理を待っていると、近くの作業員らしき男性3人組が入ってきた。常連客のようで、店員さんと軽く談笑しながら注文している。
店員さんが3人の注文を主人に伝えると、しずかに、それでいて疲労が滲むでもなく、この場を心から信頼し安堵しているかのような沈黙が3人のなかに流れた。心做しか、差し込む陽が明るくなった気がする。

間もなく、付け合わせのたくあん、お茶碗いっぱいに盛られたほかほかごはんに、真っ白な湯気で通路を描いてスープが運ばれてきた。

「すぐ野菜炒めも出るからね〜」

「はーい、ありがとうございます」と言い、わくわくしているうちに本当にすぐ運ばれてきた。

おいしいことは、運ばれてくる前から匂いと音がおしえてくれた。
「ジューッ」というより、「ジャーーーーーの重複」というような、油の染み込んだ中華やさんの中華鍋でしか聴けない音。油も鍋も喜んでる。「おいしい」が店内を隅から隅まですっぽり包み込んでいた。

いざ目のまえに現れた野菜炒めは、雨上がりの水たまりのようだった。どちらが照らされているのかわからなくなるほどに艶やかでまぶしい。きらっきらしていた。
いただきますの「す」で口に含んでいた。自分が思う何十倍も空腹だったらしい。

野菜たちはちっともしなっていないのに、しっかり味が染み込んでいて、ひとくち含むと白米がどうしようもなくたべたくなる。
口のなかからなくなると、また野菜炒めを掴んで食べる。そうするとほとんど無意識に白米を口元に運んでいて、またなくなると野菜炒めを食べる。

こうして箸をもつ手が止まらず、はっとすると、お茶碗に入った白米が残り3分の1までに消えていた。
人は、目の前にあったはずのものがなくなると、反射的に辺りを探してしまうらしい。自分でも信じがたいことに、左右や足元をきょろきょろと探してしまった。
きょろきょろしていたら、さきほどの3人が、ホッとした顔でしずかにあたたかいラーメンを啜っているのがみえて、ようやく心が戻ってきた。
もしビールをのんでいたら、今頃2杯目を頼んでいただろうなあとぼんやりと考えていると、餃子が運ばれてきた。

ちょうど窓から差し込む陽のもとに、餃子は置かれた。ひとつはみ出た餃子のぼやっとした影が愛おしい。きれいなきつね色に焼き上げられた姿に、思わず息が漏れる。
餃子はどうしてこうもうつくしいのだろう。ぷりっと身が詰まったミルク色の生地は、まるで無邪気な赤ちゃんのおしりのようだ。やさしく噛んだときに溢れでるあつあつの肉汁を思い浮かべて、かぶりつきたいきもちを必死に抑える。

今度はゆっくり、味わって食べないと。

しょうゆ、ラー油、お酢を小皿に注ぐ。日の丸のように広がったラー油の中央に端から摘んだ餃子の先をちょんちょんとつける。すると、ひとつのおおきな丸だったラー油がちいさな丸になって四方八方にばらけてゆく。
餃子を食べる前の、この瞬間がすきだ。集団から自立する様子を見届けているようで応援したくなる。まちきれず行儀悪く箸でつついたりしてしまう。

たっぷりとついたタレが落ちてしまわないようにゆっくりと口元に運ぶ。赤ちゃんのおしりのように繊細でやわらかな皮の部分と、香ばしさと共にサクッとした焼きの入った部分を上の歯と下の歯でたのしむ。やわらかい皮のほうから先に、ほどよい肉汁とたっぷりと入ったにんにくの旨みが溢れだす。
お店で食べる餃子はビールが合うような、がつんとジューシーな罪の味というイメージがあったけど、ここの餃子は、もっとやさしくてあたたかい、おばあちゃんのぬくもりのような味がした。

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先日、父方のおばあちゃんと一瞬だけ顔を合わせる機会があった。
足腰が悪くてスッと立ち上がれないから、寝転がったまま、ドアの向こうに立つわたしをゆっくりと見上げた。おばあちゃんは耳が遠くてほとんど聞こえないうえに、こちらがマスクをしているから口元をみて判断することもできない。
わたしは、おばあちゃんが言うことに全力で首を振って応えることしかできなかった。それなのに、おばあちゃんは笑顔で、じっくりと、噛み締めるようにわたしを見続けた。いつものように、抱いて、握手をして、笑い合いたかった。悔しくておいおい泣いてしまいそうだ。

お別れしたあとに、泣きだしそうになるのを堪えていることを知ってか知らずか、「元気そうだったでしょ。あの人よく食べるんだよ。本当、よく食べる」と、父がわたしに向かってはっきりと言った。

おばあちゃんの枕元には、父が作ったドライカレーが置いてあった。おばあちゃんがあまりご飯をつくらなくなってから、一緒に暮らす父が料理をするようになった。それがどうやらたのしいようで、たけのこを採ってきたり、燻製器でスモークチキンをつくったり、おいしそうな料理を作っては、頻繁に写真が送られてくる。

枕元には空のお皿が1枚あったから、きっとそのドライカレーは2杯目だろう。
よく食べるなら、大丈夫だ。

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餃子を食べながら、おばあちゃんに手紙をかこうと決めた。手紙なら、漏れなくしっかりと伝わる。親友からもらった万年筆で、うんとおいしい話をしよう。

おばあちゃん、酢豚とカリフラワーは、予想以上に相性がいいのよ。大切な人と食べるごはんは、焦げたハンバーグでもおいしいし、餃子はぷりっとしていて赤ちゃんのおしりにそっくりだわ。

ぼんやりとこんなことを書こうと思い浮かべながら、遊びにいくたびにおばあちゃんが作ってくれた炊き込みごはんの味を思い出していた。

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