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誰かを愛する夢を見た日の朝
誰かを愛する夢を見たことはあるだろうか?
ただし、特定の誰かではなく、出てくるのはぼんやりとした、抽象的な「愛の対象」である。
私は何度かある。そんな夢を見た日の朝は、決まって幸福感に満ちていた。
目覚めて、ベッドの上でじんわりとした感覚にしばらく浸っていた。
でも、それは現実のことではないから、愛する人が実際にはいないことをすぐに思い出して、どうしようもなく胸のあたりが痛くなった。
ノンセクシャルを自認していた大学時代。
もともと自己肯定感の低い私にとって、誰かに恋することは恥ずかしいことだった。
恋をしても、誰かに執着している自分が気持ち悪くて、気持ちを抑えつけて、結局一人のままでいた。
そして、恋はできても、性愛はきっと理解できないから、どちらにせよ想いは成就しないと最初に諦めていた。この先も一人かも知れないとぼんやり感じていた。
そんなとき、冒頭のような夢を度々見た。
今から思えば、誰かを愛したい欲求は常にあったのに、その愛情を向ける対象がいなかったことが虚しかったのだと思う。
ノンセクシャルでセックスをしたくなくても、誰かは愛したかったし、自分の情熱の全てを特別な誰かに注ぎたかった。
愛されることと愛すること、どちらかを選べと言われたら、私は後者を選ぶと思う。
自分の中に存在しているかもしれない愛情というものの全てを、誰か一人に思いっきり注いでみたい。
そんな欲求があった。
ただ、誰かに堂々と愛情を注ぐには、愛されることも必要だと気づいた。
例えば、頭を撫でたり、普段の食生活の心配を執拗にするにも、それをすることを相手に認められる必要がある。
つまり、相手からも愛されて相思相愛の関係になればこそ、相手に思いっきりコミットすることができるのだと。
そして、それが許されない間は、例え誰かを愛したい気持ちがあっても、昇華できずに、燻っていた。
それが大学時代の孤独の正体だったのかもしれない。
今は生まれて始めてのパートナーができて、愛されていることを感じると同時に、それを理由に、私の気持ちの全てを彼に捧げることができている。そして、それがとても幸せだと気づいた。
できるだけ長く、その時間が続くように願っている。
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