鹿児島旅行記 後編
翌日携帯のアラームで目を覚ました私は、洗顔と着替えをすませロビーに向かった。ロビーの一角で行われる朝食バイキングに参列するためである。このホテルでは無料で朝食が振舞われる。おにぎりがやけにおいしい。別にいい米をつかっているとか、トッピングが豪華だとかそんなことはないのだけどやけにおいしい。私は物の味が時折分からないことがある。機械的に食事をとっていることがよくあるので、美味しく食べられるというのはありがたいことだなと感じた。
チェックアウトをすませ桜島行きのフェリー乗り場を目指す。朝の光に包まれた桜島はまた一段と美しい。私は吸い寄せらるように目的地に向かった。その日は折しも日曜日でフェリー乗り場は混雑していた。近くには水族館があり親子連れが並んで開館を待っている。私はイルカが心から好きなので「彼らに会いたいな」と気持ちが少し揺れたが、一人で水族館というのも何だか寂しいかんじがしてやめておいた。それにしても本当に桜島は海を隔ててすぐのところにあるのだなと感心する。フェリーの所要時間は15分とのこと。小刻みのスケジュールで運行しているのでそんなに待たなくてもすぐに乗ることができた。船内は込み合っているので甲板にでて潮風を浴びる。気持ちがいい。ちょっとした冒険気分である。そうこうしているうちにぐんぐんと島に近づいていく。本当にあっという間である。島に降り立ちいざ観光といきたいところなのだけど、私は歩行に支障があってとても島を歩いてまわれる余裕などないのでそのまま帰ることにした。何のために島に渡ったのか自分でも分からずじまいだが、仕方がない。上陸してみたいというささやかな願いは叶えられたのだからよしとしよう。
帰りのフェリーには修学旅行生だろうか、学生がたくさん乗っていて、彼らの元気のよさに私は若干の居心地の悪さを感じていた。考えてみれば私は公共の場ではそれがどんな時であれ静かにしているような子供だった。とんぼ返りで桜島参拝をすませた私は満足して帰りの途に着くことにした。本当に旅に来たのか。何なのか。もっとやる気をもてと自分でも思うのだが、体力的にあまり無理をしてはいけないと判断した結果だった。元気であれば西郷隆盛ゆかりの地をまわるとか、桜島を一望できる仙厳園に赴くとか色々なことができたはずなのだが仕方がない。私は鹿児島中央駅を目指して歩いた。帰りは中央駅から列車をつかって帰る予定である。駅ビルで『バナナフィッシュ』の5巻を買う。特急列車「きりしま」の席を予約し、発車時間までスタバで時間をつぶす。5巻ではアッシュがヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』という作品に登場する豹の姿に自分を重ねる場面が登場する。私にとっての『バナナフィッシュ』はあの場面にすべてが集約されている。圧倒的な孤独とその深淵をのぞこうとする者だけが到達できる高み。私の心は完全にニューヨークにとんでいた。ここが鹿児島であることを忘れるぐらいに。列車の時間がせまってきて我に返った私は急いでホームに向かった。特急「きりしま」は車体の色が黒く、とてもカッコいい列車だった。列車が走り出し窓の外に目をやると思わず「わー」と声がもれそうになる。桜島がその雄大な姿を現したのである。その日は運よく快晴で錦江湾に浮かぶ桜島は本当に美しかった。感動で胸がいっぱいになりながら、列車で帰るという選択をした自分を心の中で褒め称えた。
その後の私は旅にはでていない。やはり体力的に無理を感じたからである。今こうして自分のことを振り返ることが私にとっての旅である。そして『バナナフィッシュ』はアニメ化された。動くアッシュをみたいと思いながらも未だにみれていない。あのスタバは私の心の中では確実にニューヨークにつながっていて、後にも先にもあんなに物語の中に没入することはないだろうなと感じた。
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