【徹底解説】1575年長篠の戦い 織田信長・徳川家康35000VS武田勝頼18000 麒麟がくる

1575年におきた長篠の戦いは、織田・徳川同盟軍35000と武田勝頼軍18000の戦いです。※軍勢は諸説あり

<合戦までの流れ>

1572年 12月三方ヶ原の戦いで、武田信玄が織田・徳川軍に勝利しました。https://youtu.be/CdiIdm-79-0

4月、進軍中の武田信玄が病死します。

1573年 8月、奥平貞昌(おくだいらのぶまさ)が、信玄の死により一族を連れて徳川方へ再属します。家康は、武田氏から奪還したばかりの長篠城を守らせました。

9月、織田信長が室町幕府、浅井氏、朝倉氏を滅亡させ、信長包囲網を打開しました。

1575年 4月、勝頼は信玄の遺言を破り出陣します。

1575年4月、武田勝頼は信玄の「4年間は死を隠して国固めをせよ」との遺言を破り、3回忌法要を済ませると、上杉に10000の備えを残し、15000の軍勢で出陣します。

4月29日、武田軍は二連木城を落とします。三方ヶ原の戦いで出陣したことによる失敗や、織田信長からの援軍もなく、浜松城で籠城していた徳川家康でしたがが、ついに救援のために出陣します。

徳川家康が2000の兵で吉田城に入ると、武田軍は吉田城の攻撃をやめ、長篠城に向けて進軍します。家康は吉田城の救援には成功するも、重要地点長篠城の救援には行けません。

5月11日、武田軍は長篠城に攻撃を開始します。事前に攻撃に備え堀などを深くしていた長篠城兵500は必死に抵抗します。家康は救援には行かず、岡崎城に向かいます。

5月13日、信長包囲網を打開し岐阜城に戻っていた信長は、30000の大軍と鉄砲1500丁を整え岐阜城を出陣。ついに家康に大軍の援軍を送りました。

5月14日、信長は岡崎城に到着します。大軍に対して武田軍が籠城、もしくは甲斐に引き返すことをさけたい信長は、武田軍をおびき出すため、ゆっくりとした進軍でした。

5月14日、総攻撃に必死に耐えていた長篠城は、米倉を焼かれ兵糧攻めにあいます。深夜、城兵の鳥居強右衛門が川を泳ぎ、武田軍の囲みを抜け出し、岡崎城に走ります。

5月15日、鳥居は65km離れた岡崎城の家康のところに1日で到着します。緊急事態と援軍を要請すると、織田信長の援軍も岡崎城に来ていることを知り、長篠城に戻っていきます。

5月16日、長篠城の手前で武田軍に捕まった鳥居強右衛門は、援軍が来ることを長篠城兵に伝え、城兵は奮い立ちますが、鳥居は武田軍に張り付けの刑にされてしまいます。

その頃、織田・徳川軍35000は牛久保城に到着。14日に岡崎城を出て2日間かけてのゆっくりとした進軍で、武田軍を恐れていると思わせます。長篠城300は武田軍の猛攻に必死に耐える。

5月17日、織田・徳川軍は野田城に到着。武田軍は結局長篠城を落とすことができませんでした。信長は味方が1人の損害も出さないようにしようと作戦を考えます。

5月18日、織田・徳川軍は一部の徳川軍3000と合わせて38000が設楽原に着陣。武田軍は軍議で重臣が撤退を進言するも、勝頼は決戦を決定します。

織田・徳川軍は極楽寺山で軍議を開く。酒井忠次が長篠城救援の奇襲策を進言すると信長に一蹴されるも、軍議後酒井はひそかに信長に呼ばれ、奇襲策の決行を伝えられます。

5月19日織田・徳川軍は布陣して三重の馬防柵を作ります。信長は茶臼山に布陣。家康は高松山に布陣。夜、武田軍の重臣は討死を覚悟し、分かれの盃を交わしました。

5月20日大雨の中、織田・徳川軍は山を削り崖を作り堀を作って山を城にする日本初の野戦築城「陣城」を1日で完成させます。武田軍は長篠城攻撃に3000を残し、残りの15000が軍を進めるも、雨で陣城や大軍に気づくことができませんでした。

5月21日、決戦の日。信長、家康、勝頼が軍を進める。深夜酒井忠次が弓・鉄砲に優れた兵1500と鉄砲隊500が主力の4000の別働隊が長篠城救援と、武田軍の退路を断つため豊川を渡河し、大きく迂回し南側から尾根伝いに進みます。

早朝、雨が上がりました。武田軍左翼の山県昌景(やまがたまさかげ)が突撃を開始します。梅雨時で田は沼で騎馬隊の動きが鈍りました。そこに織田軍の1500丁の鉄砲が一斉に火を噴きました。

武田軍重臣山県昌景が討死します。武田軍右翼馬場信春も突撃を開始します。南側から尾根伝いに進んだ酒井忠次が、鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を後方より強襲し砦を陥落させました。

武田軍右翼馬場信春も壊滅します。その他の隊も突撃するも1500丁の鉄砲と陣城から繰り出される織田・徳川軍の攻撃に壊滅。酒井忠次も長篠城の救援に成功します。

武田軍は、山県に続いて、原昌胤(はらまさたね)、真田信綱(さなだのぶつな)、土屋昌続(つちやまさつぐ)、安中景繁(あんなかかげしげ)、望月信永、米倉丹後守(よねくらたんごのかみ)など重臣がことごとく討死。戦いは、8時間一方的な展開で決着がつきました。

織田・徳川軍が猛烈な追い打ちをかける。馬場信春・内藤昌豊(ないとうまさとよ)がしんがりを務め、壮絶な最期を遂げる。勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら退却しました。

こうして長篠の戦いは、1500丁の鉄砲と、陣城におびき寄せることに成功した織田・徳川軍が武田軍を壊滅させました。武田軍は多くの重臣の討死を始め、1000~10000の死者を出し、一方織田・徳川軍の死者はわずか60程度でした。

※3000丁の鉄砲、三弾打ちという事実はありません。

ご視聴、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?