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離島で暮らすことを決めた理由

東京生まれ、東京育ちの38歳。この春から、隠岐諸島の海士町(あまちょう)に暮らしの拠点を移すことを決めた。自分の記録のために、そしてこの記録が誰かの参考になればという気持ちで、離島で暮らすことを決めた理由について書きたいと思う。

海士町のコンセプトは「ないものはない」

本土からフェリーで3時間。人口は2,400人、コンビニはない、信号機は1つだけある島。縁があって、昨年夏に家族で訪れた。島に到着してはじめに感じたのは「音が違う」ということ。長年のマスク生活で耳の感覚が発達したのかと書きながら思うが、人も自然も共に生きていることを感じた。とにかく、東京の街中とは違う音だった。車の窓をあけて海沿いを走ると、だんだんと開放的になっていく自分がいた。

滞在中、子ども達と海で遊び、夜は海が見渡せる海岸でBBQ。サザエを壺焼きにして、その殻はまた自然界に戻るから、海に投げ返す。星空の下、4家族で花火をしたり、語らい合ったり。また島では月1回開かれるマーケットがあり、出店のお手伝いもしたりした。島の人と話したり、自然に触れあう中で、どんどん島の魅力に引き込まれていったのだ。

自分が開放されていき、素の自分でいることに気がついた。「あ、これだ」。その感覚を描写するとすると、自由、湧き上がる感情、笑い声、人・・・。忘れかけていたものを取り戻したような時間だった。

帰りのフェリーに乗り、ゆっくりと現実に戻っていくわけだが、羽田空港からの車での帰り道にふと疑問に思ってしまった。「なんでこんなに建物や車が多いんだろう」。そこに疑いなんて持たずに生活していたわけだが、なんか違う生き方もあるんじゃないかって思って、その時にはもう心の中で決まっていたのかもしれない。暮らしの拠点を移すことを。

原点はギャル時代にある

出身は東京と言っても八王子で、高尾山麓のふもとの中高一貫の女子校で思春期を過ごし、いつも高尾山をながめながら授業を受けていた。校則が厳しい学校で、みんなと同じではないアイデンティティを発揮したいと、何を思ったか日焼けサロンに通い、渋谷に繰り出すギャル時代を送っていた。

人って、抑制されるとそれを跳ねのけるようなバネのような力があるが、私のそのバネのような力は外に向いていた。自分の中じゃなくって、外にしか自分がほしいものはないと思っていた。アルバイトをして、お金を貯めて、好きなギャル服を買う。それが楽しみだった。

それが、180度いや回り回って300度ぐらい、ぐぐぐっと価値観が変わって島で暮らすことにたどり着くのだが、その原点、スタート地点がギャル時代である。

「趣味は貯金。将来タワーマンションに住みたい」

40歳も近くなると、人生で振り返れるものが多くてどれを選択するか迷う。笑 だって、プロフィールでは「新卒では商社で4年間営業し、その後転職」とかって書くけど、この4年間の中にいろんなドラマがあるわけで。でもこのたった20文字で収められちゃうことに、刹那を感じたりする。

話はそれたが、ギャル時代に物質的豊かさを追い求め、大学時代はバックパッカーとして放浪しながら、豊かさって何だろうと考える時間もあった。

でも大学も後半になると、みんなが就活するからと就活し、赤髪、金髪、スパイラル、と楽しんだ髪型も、就活というものに収束させにいったわけである。黒髪にスーツ決め込んで。

新卒ではありがたいご縁で、商社で営業として働くことになり、大好きな先輩たちに囲まれて、営業としてお客様への価値貢献を模索する日々。残業して毎晩、提案資料を作っていた。その代償として、大学時代には手に入らなかっような大金がお給料やボーナスとして振り込まれると、一種のゲーム的に通帳を眺めるのが楽しかった。切り詰めて貯金、というよりも、こんなに使ってもまだある!なんて言って、金曜夜は同僚たちと六本木のクラブによく繰り出したものだ。

年収半分になるけど、自分の力を注ぎたい

仕事終わりや土日が楽しみの中心となってきて、もっと心が動くような仕事をしたいと思い、途上国発のアパレルブランド・マザーハウスへの転職を決意する。今では国内外含め40店舗以上あるが、当時はまだ5店舗だけ。待遇は今までとはかなり差があるが、自分の力を注いでみたいと飛び込んだ。

新卒の会社では配属部署もデスクもPCもすべて支給してもらって、それが当たり前だと思っていたが、マザーハウスでの初日、全体会議があり、自らの居場所を自らの手で確保するのだが、はじめて座った椅子は業務用掃除機の上だった。「すごいところに来たぞ」と、改めて実感するわけだが、与えられるではなく、自分の手で調達することに新鮮さを覚えた。

マザーハウスでの日々は、自分たちの手で未来を作っている感覚があった。お客様の商品に対する反応や要望をダイレクトに生産現場に届ける。すると、早ければ次のロットから、内ポケットの仕様が変更されて入荷されるなんてこともあった。お客様にとって心からいいと思える商品を作って、お届けすることで売上になる。売上が立つと、生産現場では新しいチャレンジができて、またお客様に満足してもらえる商品を作れるし、働く私たちの給与にも反映される。このヘルシーな循環に魅了された。

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とはいえ、現場はベンチャーならではのカオスだし、若手も多く、手探りで自分たちなりの正解を見つけていく日々だった。そこに仲間がいてくれたから、乗り越えられた。途上国のメンバーとの時間も含め、仲間と心を通わせたり、もがいたりしながら、一つのゴールを達成していくことに喜びを感じた。

この仕事に全力を注ぎたいと飛び込み、そこで得られたものは想像もしていなかった彩り豊かなものだった。

小さな命の持つ力

縁があってパートナーにめぐり逢い、娘が誕生した。それまでの仕事人生から一変。娘という存在は、頭で考えるものではなく、理由とか説明できない、ただただ愛しい。

生きているだけで価値がある。

仕事では、成果を出してこそ価値があるものだと思っていたけれど、それとは全く違っていて、存在自体が価値。白黒はっきりつける価値観に、白黒以外の部分があることを教えてくれた。この頃から、ギャル時代から続けていたアイプチ(目を二重にする化粧法)と付けまつげを手放し、すっぴんで生活するようになるのだが、少しでもよく見せようという動機は横に置き、そのままでいいじゃんと思うようになるのである。

娘の誕生によって、私の興味関心は途上国ビジネスから、身近に暮らす社会へと移っていく。子育てをしていると、温冷、両方の視線を感じることがある。社会全体が温かい視線であふれていくにはどうしたらいいだろう。声をかけあって、助け合っていく社会にするには、真ん中にあったかいスープがあれば、人ってやさしくなれるんじゃないかなぁ。そんな想いで、「食」に関することを生業にしてみたいという気持ちが湧いてきた。

小さな平和な台所

縁があって、tiny peace kitchenという飲食店を共に立ち上げた。東京のど真ん中、永田町で「まいにち家庭料理を食べよう」というコンセプトで、働く人も”ながら食べ”じゃなくて、食べる人のことを思って作られたごはんを食べよう。昼休みにネクタイゆるめに来てね。そんな想いをこめた。

おいしいごはん食べたら人って元気になる、笑顔になる。作る人の顔が見えるようにオープンキッチンにして、ごはんを真ん中に「久しぶりですね!」というお客様とのやりとりが私にとってのビタミン剤だった。

人が笑顔になったり、やさしくなれて、それが幾重にもなったら世の中って変わっていくんじゃないかって思ってtiny peace kitchenを営んでいた。だから、私たちは「やさしさが連鎖する経済圏をつくる」というミッションを掲げ、ファイティングポーズじゃなくて、おたがいのやさしさで成り立つにはどうやったらできるのか?を、食材の仕入れ、お客様や生産者さんとの関係づくりを通じて、日々実験していた。

結果的には、コロナの影響も大きく閉店したのだが、コロナだけが理由ではなく、みんなが常にトップギアで動いていて、経営的にそれが私たちが理想とする世界観なんだっけ?という問いがあった。収益構造を変えて、環境を変えようとした矢先にコロナがあり、苦渋の決断を下した。

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自分を許す旅路

収益構造のもう一つの軸が、コーチングだ。飲食とコーチング?!って感じなのだが、根本にあるやりたいことは変わらず、働く人たちが心身ともに健康であるこのサポートとして、物理的にごはんを提供していたところから、手法を変えてコーチングを提供することをもう一つの柱にした。

このコーチングの世界に足を踏み入れてから、自分の視座が変化していくのである。コーチングの場では、コーチとしてのあり方が問われ、コーチ自身の人間味が丸ごと扱われる世界。毎回のセッションで出る問いは、自分自身へもブーメランのようにめぐってくる。

私の本当の願いって、何だろう?

幼少期からギャル時代を経て、私の願いにはいろんな包装紙が巻かれて、実態が分からない感覚があった。それをはがしてみたり、水につけてふやかしてみたりして、願いというものを見つける時間がここ数年多くあった。

私には「◯◯したい(want to)」よりも、「◯◯しなければならない(have to)」が、常に、何よりも優先される判断軸だったし、私にはwant toなんて存在しないと思っていた。そう思って30数年生きてきた。コーチングに出会い、私にもwant toがあったということ、そしてwant toを選ぶ自分を許していいんだということを実感していくのである。

ここ3年ぐらい、生きることの探求が深まっている感じがしていて、興味深い。その探求の一つに、住む場所というものがあった。

息子を出産後に「あなたが手にしたい未来は?」みたいな問いにイラストを書くワークショップがあり、自然の中に家族といる光景を描いていた。何度問われても、毎回、初めに緑色のペンを探して自然を背景にしている。

毎回描いちゃってるんだから、もうそれは理由なしに、自分が願っていることなわけで。住む場所に関して、常に潜在的にアンテナが張っていたんだろうと思う。だから、海士町に行った時に、ビビッと来てしまった。

冒頭、暮らしの拠点を移した理由を記したい、とこの記事を書き始めたけれど、結果的には、「ビビッと来たから」というのが理由だったというオチ…笑 でも、このビビッとくるまでのストーリーは、私にとってはどれも大事で、今の私をつくる要素になっている。

分かりやすく端的に理由を述べることが大切な場面もあるけれど、つらつらとそこにたどり着くまでのストーリー、その行間を楽しめる人生を歩んでみたいと思っている。

これからの島での暮らし、また折りを見て、書き綴っていきたい。

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