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たった5分。大事な5分。

とある女の子との出来事

ある日、夜ご飯を食べて帰宅しようとすると、病院の外のベンチに女の子がぽつんと座っていた。
外来の時間はとっくに過ぎていたけど、人が座っていることはよくあるので特に疑問に思わず、通り過ぎた。
でも、何かが引っかかって振り返ってみると、さっきまではいなかった男性の看護師が2人、女の子に声をかけていた。
聞けば、お母さんがemergencyで運ばれてきたらしく、家族がみんな処置室に入ってしまい、出てくるのを待っているのだとか。
女の子に話しかけていた男性の看護師2人も、処置室に出たり入ったりを繰り返しているので、女の子が1人になってしまうタイミングもあった。

なので、隣に座ってみた。
とても不安げな顔をしていて、少し涙ぐんでいた。

当時、まだカンボジアに来て2週目だった私は、名前と年齢を聞くことや、「かわいい」と「大丈夫」くらいしか話せるクメール語はなかったけど、少し話しかけてみた。

ほどなくして、お母さんが車椅子で酸素マスクをつけて出てきた時の彼女の足取りはとても軽く、私の方を振り返って笑顔で「バイバイ!」と言いながら帰っていった。

オッアイテー?

その2日後、emergencyで運ばれてきた男性の処置が行われていた。
意識がなくて、自発呼吸ができていない状況らしく、緊迫している状況が素人目にも伝わってきた。

ふと周りに目をやると、その男性の家族と思われる方々が心配そうに見ていて、奥さんらしき女性は携帯電話で誰かと話しながら泣いていた。
男の子がいて、「パパ?」と聞くと「うん」とうなずいた。
女の子もいて、お父さんではないと教えてくれたが、親戚なのだと思う。
男性が救急車に乗って大きな病院に運ばれることとなった時には、2人とも涙を流していた。

自分はそばにいることしかできず、
「オッアイテー(大丈夫)」
と言いながら背中をさすることしかできなかった。
彼らと過ごした時間は、たった5分ほどだった。

無力さと存在価値の狭間で

同じ週に2つの出来事が起こって、いろいろと考えた。

そばにいることが彼らにとってどれほど意味のあることなのか。

「オッアイテー(大丈夫)」と言うことが本当に正しいことなのか。

今の自分には分からない。

でも、その時その瞬間に同じ行動をとる人がいないなら、自分がやればいいのではないかと今は思っている。
目の前で子どもが泣いていて、周りに誰もいないのに見て見ぬ振りをするなんてできないじゃん、って。
そんな感じ。

その子のそばにそっと座って、特に沢山話しかけたり慰めたりするわけでもなく、

ただ1人ではないということだけを伝えるために、
そしてほんの少しでも安心して笑顔になってもらうために、

その手助けくらいなら出来るかもしれないと。

何の資格も持っていないけれど、傍から見たら自分だって医療従事者なわけで、ユニフォームを着ている以上その責任がある。
自分の特技、価値を示せる場所、自分のため、そして相手のためになることを探して。

でもまぁこれは後付けで、単純に子どもが好きだし、笑っている顔が好きで、そんな表情を見たくてやっているだけなのかもしれない。
だけど、このような行動が無意識なままなのと、あえて意識して意味付けるのでは、自分の中で大きな差がある。

リフレクションって大事だね。


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