パティスリー・ノスタルジア

出会い

妻が友人から勧められたパン屋がある。
正確には、パティスリーなのだが、勧められたものがパンだったので、
我が家では、パン屋と認識している。

そのパン屋は、小さな駅の小さな商店街の一角にあり、
こじんまりとしつつも、可愛らしくお洒落な雰囲気を醸し出している。

お洒落というと、少し古めかしい印象を受けるかもしれない。
今風(今風という言い方も年齢を感じさせるものだが・・・)にいえば、
ナウい?いけてる?尊い?エモい?どれもしっくりこない。
やはりお洒落という昭和を感じさせる言葉が合う。
そんなパン屋さんだった。

一度目の訪問

最初は、そのパン屋さんを目的に、その町まで行った。
そして、妻の友人が勧めてくれたブドウパンを買って帰った。
家に帰って、トーストして食べると、
質素で控えめで、おいしすぎないという印象だった。
都会のおいしいパンは、その時はおいしいのだけど、
後で胃がもたれたり、バター、バターしていたりするけれど、
そういうパンとは違うおいしさがあった。

二度目の訪問

二度目は、別の用事でその町を訪れたときに立ち寄った。
心なしか店の外観や内観が前よりきれいになった気がした。
その日は、ブドウパンが手に入らず、別のものを買って帰った。
家に帰って、トーストして食べると、
やはり前回と同じ印象を覚えた。
なんとも言い表せない感情が湧きあがってくるのを感じた。

あの感情はなんだ?

おそらく妻も同じ感情がわいていたのだろう。
なんとも言えない感情について、家族で話し合った。
さみしい感じ?それとも懐かしい感じ?もう一声というところ、
息子が「懐かしい」といった。
平成生まれの息子が「懐かしい」なんていうのはおかしな話だと思った
その次の瞬間。

「ノスタルジア」という言葉が現れた。
妻もその答えに賛同したのだが、私は自分の言葉を少し疑った。
私は、子どもの頃にパン屋に通ったことなどないため、
経験に基づく「懐かしさ」は感じていないはずなのだ。

おそらく、そのパン屋の外観や内観が、
私や妻の持つ昭和のアーキタイプに近かったためだろう。
生まれ育った昭和の時代、少しずつセピア色に変わっていく昭和の記憶。
平成、令和と年号を変え、徐々に失われていく昭和的なものに、
どこか失っていくことへの寂しさや、それを思う懐かしさがあるのだろう。

私の味覚は、決して鋭くなく、市販のパンでも十分おいしく頂ける。
だから、パンの味を求めて、あえてそのパン屋にいくことはないだろう。
ただ、令和の時代に疲れて、幼少の頃の気持ちに戻りたくなったとき、
私は、パティスリー・ノスタルジアに再訪する。

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