『ほつれる』明らかになる終わりとずっと続いていた終わり
加藤拓也監督の2作目『ほつれる』について。今自分が夢中になっている行為が過ちだと分かっているときの苦しさ。それがずっと続いていく映画。夢中になっていたことが終わりを迎えても、過ちは続いていく。その苦しみに決着が着くときがタイトルで、それがラストなんだけど、何も解決しておらず、ただ終焉を迎えたという。一瞬の解放感とやり場のない憂鬱。
事実を回避しながら会話をしていた夫婦が、事実を話したとき、堰を切ったように感情が溢れ出す。一番残酷で、一番胸に迫るシーンだった。
この映画はとてもリアルであるも、自分の現実とは全然重なることはないのだが、鏡を見るように自分の悩みを見ているようだった。映画は写し鏡になる。今の妻との関係性の中で見たものと、5年後の妻との関係性の中で見たものとは、まるで違うと思う。
芸術は生きる糧になり、変化のきっかけになる。この映画もそうなった。電車、バス、車で移動する門脇麦の物憂げな表情にと、石橋英子の透明感ある劇伴は、連なることで強い力を持った。映画でなければ到達できなかった、劇作家加藤拓也の新たな傑作映画。