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教えるということ、導くということ

先日の投稿で、私が2月生まれという話をさせていただきました。早生まれというのは色々と損だという話を世間では聞きまして、実際に同年齢の遅生まれの子供たちに比べると、統計的にみても発育に差があるようです。もちろん、個人差も多少はあるかと思いますが。

そんなことを考えていて、そういえばと思い出したことがあります。個人的な話になりますが、私は小学3年生になっても、「ど」と「ろ」の発音の区別がついていませんでした。3年生になって間もない頃に、国語の授業か何かで教科書の朗読をあてられて、そこに「こども」という語句がありまして、それを「ころも」と読んで、クラスメートたちに笑われました。

しかし、その「ど」と「ろ」の発音上の区別がそもそもついていなかったので、自分ではなぜ笑われているのかもわからずに、頭の中が「?」でした。そもそも、学校でも家庭でも口数の少いほうだったので、その年齢になるまで他人から指摘されることもありませんでした。だから、自分の発音が間違えているという認識自体がなかったのです。

その時の担任の先生が定年も間近なベテランの先生でして、笑っている生徒を制しながら「大丈夫よ。そのうち、ちゃんと言えるようになるから」と、さらっと流してくださいました。その言葉通り、小学4年生になるころには、いつの間にか、自分でも気づかないうちに自然と「ど」を発音できるようになっていました。

きっと先生は経験上、遅かれ早かれ、きちんと発音ができるようになるから無理に矯正する必要もないと考えられたのだと思います。これが経験の浅い教師だったり、熱血タイプの先生だと、「なにがなんでも治さないと」と使命感に駆られて、放課後に居残りで「ど」の練習なんて話になっていたかもしれません。そうなっていたら、自分の性格上、萎縮したりストレスで最悪は不登校になっていたかもと思うと、先生の鷹揚さに助けられた気分です。

今はどうか分かりませんが、私が子供の頃には例えば左利きの生徒をなんとか右利きに矯正しようとするような先生もちらほらいました。私の弟が左利きでしたが、不運なことに弟はそういうタイプの頭の固い教師にあたることがあって、苦労していたのを覚えています。確かに、自動改札であったりはさみであったり、左利きというだけで不便なことというのは世の中にいくつもありますが、だからといって無理やりに右手を使わせるというのは子供にとってはストレス以外の何物でもないでしょう。

左利きが個性なら、ほかの子供より多少発育に遅れがあるのも個性です。その個性を信じて、時には黙って見守ってあげるというのも教育の一つの在り方ではないでしょうか

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