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2022.10.27

綺麗なものとか心が動くようなことがあったときに、言葉や絵で誰かに伝えたくなったりする。だけど私には画力や文才がない。いつもより30分遅い電車に乗って会社へ向かう。電車から降りて会社に向かって歩いていると、眼前の空に白い何かが浮かんでいる。おそらく管区気象台から放たれた気象観測用のバルーンなのだけど、なんだかそれがとても綺麗だった。青の画用紙に描かれた風景画みたいだった。たったこれだけでその日一日頑張れるような、そんな風景だった。でも私には、その感動を満足して伝えられるような能力がない。

ところで私が乗っていたあの電車にいた人たちの何人がこの気象観測バルーンを観たのだろう。電車にいた人たちが感動したことのうち、私はどれくらい取りこぼしているんだろう。もしかしたら世界は私が受け取れていることの何倍も多く、綺麗なことや悲しいことが起こっているのかもしれない、なんてことを思う。

だーれも見向きしない言葉に何の意味があるのだろう。「だからこそ人の話に耳を傾けよう」とか思ってしまう。なんだか模範囚みたいだなあと思う。話を聞く時間を作って、相手の方を見て、時には質問したり、話を聞いている中で浮かんだイメージを共有したりしながら話を聴いていれば、私の話も誰かが聞いてくれる、とか思っている。

しんどくて仕事に行く前に吐いたりもするけれど、それを誰かに言ったところでなんの意味があるのだろうと思う。
「大丈夫?」「あんまり無理しないでね」「たまには休んでね」「あなたの身体が心配です」

教科書をそのまま読んでいるみたいな、分かりきったことしか言われない。「分かりきったことしか言われない」って思うくらいに余裕がない自分が嫌いになる。でもここで「自分が嫌い」って言ったところでやっぱり何の意味もないような気がする。「私が思っているより周りの人は私に興味がない」し、「自分を変えられるのは自分だけ」うーん、わかってるんだけどなあ。

ふと、「このままでいいのか」と考えてしまう。
誰も見向きしない言葉に敢えて見向く自分は嫌いではない。でもたまには、私の言葉も拾ってほしいなあとか考えてしまう。けれど、真面目に他人に期待するほど頭の中がお花畑ってわけでもない。

晴れすぎた8時30分、会社まであと信号機一つ越えるだけ。
太陽は私を置いてけぼりにして空高く登る。

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