『庵』

北方へ向かう列車は大蛇の如く長く、猪が猛進する姿を想起するような力強い走行で、線路に積もった雪を蹴散らしながら、灰色の空の下をゆく。
出発地点の上野を発ってから、三時間は経過しただろうか。
それにしては、車窓に映る景色は代り映えがない。
曇りガラスを手で拭ってみても、見えるのは雪をかぶった木々や田畑。
本当にこの列車は走っているのだろうか、と皮肉りたくなるほどに退屈であった。


この列車の後尾には貨物車が三台連結されている。
現地への補給物資なのだが、これではまだ不足であるということで、このあと更に臨時便として同じく上野より貨物車が出発する手筈となっている。
「野間大尉!貨物の点検をされたのですか!」
私が貨物車から出てくると同時に伍長が叫んだ。
連結部分に立っているのだから、声を張り上げなければ通じない。
私も負けじと叫んだ。
「君、便所へ行っていただろう!暇だったから俺がやっておいたよ!」
「申し訳ございません!」
「生理現象には勝てんよ!」
「は!」
敬礼を返し、私は客車へと戻った。
貨物車前の車両は兵の詰め所のようになっており、さっきの伍長はこの車両にいる二等兵らを束ねている。
皆、若い。
まだ頬に赤みの残る、あどけない少年のような男子ばかりであった。
この車両だけではない。列車の先頭までびっしりとそんな兵士たちが乗車している。
それに、軍属。
内科、外科、整形外科に歯科。看護師の役目は衛生兵が担う。
床屋に調理師という者もいる。
国から授かった役目といえども、本人も家族も胸の内は・・・・・・
先頭車両へと移動しながら、そんな彼らの顔を私はつくづくと見て歩く。
暖房と自分たちの体温による息苦しさを感じながら、皆おとなしく眠っていたり本を読んだり、ひそひそと会話を交わして気を紛らわしていた。


「野間大尉、あの、もしよろしければ蜜柑をもらっていただけませんか」
通路側に座っていた若い士官が私の前に三つの蜜柑を差し出した。
その蜜柑を見たとき、灰色の車内にパッと灯りが点ったように私には見えた。
「大きな蜜柑だね。遠慮なくいただくよ」
「父母が蜜柑栽培をやっているのです。出発前に母が持って行けと煩く言うものですから。ちょうど食べごろですので甘いと思います」
「そうか、君の実家の蜜柑か」
「は。大尉にお裾分けとは失礼かと思いましたが、大尉は果物が好きだと伺ったものですから」
「大事に食べるよ。ありがとう」
士官は童顔で、思春期真っ只中にいる男子のような照れ笑いを浮かべる。
この士官の母が息子にしてやれる事といえば、大切に収穫した蜜柑を持たせてやる・・・それだけなのだ。しかし、その中には、言うに言われぬ思いと親の愛情が込められている。
私はもらった蜜柑をポケット入れ、制服の上からそっと撫でた。
―――ひとりでも多くの兵士を家族の元に帰さねば。心破れる思いで待っている家族の元へ・・・


「俺らも補給物資なんやなぁ。大本営にとっちゃ、人間も物も同じや。俺たちは、単なるモノや」
上野のホームで、杉野がそうボヤいていた事を思い出す。
その杉野は、先頭に近い車両で全体に睨みを利かせながら、苦り切った表情で煙草を吸っていた。
彼は大阪で生まれ、幼年期をそこで暮らした後、両親の都合により横浜へ。
以降、ずっとそこで過ごしたために、標準語と関西訛りが混じった喋り方をする。
「退屈だろう。部下にもらたんだ、美味いぞ」
私は杉野の前で立ち止まり、さっそく彼に蜜柑を一つ差し出た。
「これは、野間大尉。恐れ多いことで」
一階級下の杉野は、部下がいる公の場では私を「大尉」と呼ぶ。
けれども、二人きりになれば、「野間」と呼び捨て、気軽に話すのだ。
私たちは同期の桜なのだから、当然である。
「あと何時間、拘束されるんかなぁ」
「着いたら着いたで、今度は船だ」
「荒れてるだろうなぁ、あの海峡は」
「そうだな」
杉野は少尉の特権とばかりに、一人でボックス席を陣取っていた。
「まぁ、座れよ」
「ああ」
杉野の対面に座った私は、蜜柑の礼、とでも言うように差し出された煙草を一本抜いた。彼は私が咥えた煙草にマッチで火を点けると、それをフッと吹き消し、言った。
「俺たちの命も、こんな風に、あっという間に消えるんや。消えたら、次のマッチに火をつけりゃええ。代りは、いくらでもいるんやし」
「俺がいなくなったら、お前が大尉だ。よろしく頼むよ」
「バカ言うな。そんな事態になったら、俺の方が先に死んどるわ」
煙草は、吸いなれない銘柄のせいか、喉に刺さるような苦さがあった。
杉野の言葉にも、言いようの無い苦さがあった。
「ところで野間よ、あの噂は本当だと思うか」
「噂?どの噂だ」
中将殿のご子息が護衛要員としてこの列車に乗っているとか、少将殿のいぼ痔が酷いとか、先発隊はほぼ全滅状態であるとか、人気歌手の青柳久美子が慰問にくるだとか・・・出どころの分からない噂のネタは豊富にある。
杉野は急に身を乗り出し、声をひそめて告げてきた。
「暴徒だよ。今回の作戦を反対している奴らや。つまり、徹底抗戦、最後の一兵まで戦うんやと、そういう血気盛んな連中がこの中に紛れ込んでいる、そういう噂や。榊大将を頭に、俺たちは今、和平への交渉を目的として北へ動いている。せやけど、それは簡単なことではないっちゅーのは、この列車に乗せられた兵の数と物資の量をみたら分かる。和平か地獄の果てまで争うか、五分五分の状況なんやからな」
その噂は、正式な会議の場で一笑に付された記憶があった。
国民は一刻も早い終結を願っている。大本営も、今が引き時であるとして、陛下にその旨を伝えている。
もちろん海軍省も承知しており、重ねられた会議でも、積極的な協力を惜しまないと約束した。我われは陸海おなじ方針を固めて、彼の地へ発つ準備を続けてきたのだ。
そこへ、この怪しげな噂だ。
「好戦的な輩は軍人になったらアカン。逆さまなこと言ってるようやけど」
私は大きく頷いた。
「あのまま陸軍が政治にまで介入していたら、今度の和平案など通りはしなかっただろうな。こう言っちゃなんだが、徹底抗戦の急先鋒だった小野大臣が急逝されて、内閣の再構築がされなかったらと考えると、ゾッとするね。政治をやりたい人間も、軍人になったら駄目だね」
「だが・・・派閥は残ってしまった。小野派の将校らが水面下で計画をひっくり返そうと策を練っていると、穏やかじゃない情報を流したヤツがおる。誰かは知らん。俺は新聞記者だと睨んだが、出どころよりも、そんなことは有り得んと、誰も探らず、確認もせず、下らない噂話だと片づけてしまったことが、俺は心配なんや。何かこう・・・嫌ぁな気がしてな・・・」
「止せよ、お前の勘は当たる。ことに悪い予感は」
「お前に言われたくないわ。けど・・・お前、どう思う?お偉いさんの会議じゃ、その事に関して一言も無かったんやろ?」
「話は出たさ。これこれこういう良からぬ噂がある、とな。しかし、有り得ない、という結論だったよ。結論と言っても、議論なんかするに値しない、笑い話の一つといった程度の扱いだ。とはいえ、海軍は陸軍の強引さや無鉄砲さを警戒しているから、あちらの川本大将や加藤中将は眉をひそめてはいたがね」
「それで?お前も右から左に流したんか」
「実は会議のあと、大臣たちが寛いでいるサロンへ行って、恐れ多くも進言してみたよ。末席とはいえ、その場に出席していた身としてね」
「ほう」
「俺は胃潰瘍で入院された事務官の代理のような扱いだったし、身分的にも弁えて大人しくしていたんだが・・・しかしね、5年前の反乱軍が起こした事件のこともあるし、噂話とはいえ、精査する必要があるのではとね」
「必要なし、と、バッサリ斬られたか」
「ああ。そんなことに時間を費やす暇はない、今はただ一刻も早く和平に向けた準備を整えることだと、そう言われた。確かに一利も二利もある。俺は黙って引き下がるよりなかった」
「そうやろなぁ。食い下がったとて、バカモノ!の一喝で終わりや」
短くなった煙草を備え付けの灰皿に捨てた私は、結露した窓に指を当てた。
―――バ カ モ ノ !
杉野は笑い、節くれだった指を動かして、別の文言を隣に付け加えた。
「オ ク ニ ノ タ メ ニ シ ネ !」


「今日は、通院日でしたか」
「いや、ちょっと郵便局へ行くからね、ついでに足を延ばして寄ってみようと思ってさ」
「それじゃぁ、先生の奥さまにこれを・・・」
家内はそう言うと、台所からアケビの蔓で編んだバスケットを抱えて来、私に差し出した。
先日、大きな西瓜をいただいた礼ということで、私の故郷より送られてきたトウモロコシを十本ほど持たせ、「くれぐれも」と念を押した。
「行ってくる。そう長居はしないから」
「いってらっしゃいませ」
郵便局で用を済ませてから、歩道の整備が盛んに行われている大通りをバスに揺られて行き、農地が広がる終点間近のバス停で下車。
ここはまだ戦前の雰囲気そのままで、スラックスに着いた土埃を払いつつ、私はすぐ目の前の畑で精を出している老婆に声をかけた。
「大沢先生は、ご在宅かね?」
「居るんじゃないかねぇ。ついさっき、煙草屋に軍手を買いに来てたから」
私は目の前にあるその煙草屋兼雑貨屋で、バットと冷えたラムネを六本買って、その店の脇にある細い坂道をのぼった。
ゆるりとしたカーブに差し掛かると、すぐに家庭菜園の緑や、朝顔、ひまわりなどの花々が私を迎え入れてくれる。そんな緑のトンネルをくぐり抜けて、先生の自宅前に立った私を呼ぶ声が奥から聞こえた。
「野間君!こっちに回りなさい」
庭の垣根からひょっこり顔を出し、真新しい軍手に土をつけたまま手招きしている。
「先生、花壇の手入れですか!暑いのに精が出ますね!」
縁側に面した庭で草むしりをしていたらしい。
日に焼けた腕や顔に流れる汗を井戸水に浸した手ぬぐいで拭うと、気持ちよさそうに息をついた。
「いやぁ、涼しいうちに終わらせるつもりが、こっちをやるとあっちもと、ついつい。さ、座りたまえ。生憎ビールは千代さんが買い物ついでに買ってくるのでね、麦茶でいいかね」
「それでしたら、ラムネをそこの店で買ってきました。冷えてますよ」
「そうか、それはありがたい」
「これは先日の美味しいスイカを頂いたお礼にと、家内が」
「とうもろこしか。千代さんも大好物なんだ、ありがとう」
私たちは縁側に腰を下して、辺りの景色に沁み入るような蝉の鳴き声を聞きながら一服した。
頭上では風鈴が快い音を響かせている。
空は青く、雲は白く、緑濃く、吹く風はどこまでも爽やかだった。
「ただいま戻りました」
カラカラと玄関の引き戸が開くと同時に、買い物から戻った千代さんの声。
「ああ、お帰り」
「お帰りなさい。お邪魔しています」
「あら!野間さん、いらしてたんですの?今日は診察日でしたかしら」
「いえ、この間いただいた西瓜のお礼に伺っただけで」
「千代さん、野間君からとうもろこしをもらったんだよ。さっそくで悪いけど、いくつか茹でてくれ」
「まぁまぁ、こんなに立派なものを・・・野間さん、かえってお気を使わせてしまったみたいで悪いわ」
「とんでもない。家では食べきれないほど実家から送ってきたもので、どうぞもらってやって下さい。家内も千代さんにくれぐれもよろしく、と」
「私こそ、また映画でもご一緒にと、お伝えくださいましね」
台所で慌ただしく働く千代さんに聞こえぬよう、私は先生に向き直って耳打ちをした。
「うちの家内は千代さんのこと、先生の奥さんだと思い込んでいますよ。一緒に住んで長いんですから、もういっそのこと、籍を入れてはどうです。千代さんは先生を慕っておられる。先生だって同じ気持ちではないのですか?正直、僕はじれったいんです。好いたもの同士が結ばれる。それが自然じゃありませんか」
先生は私の下卑たアドバイスに笑みをもらし、黙って耳を傾けていた。
「ほら、先生だって満更でもないでしょう?ご自分に嘘をつくのはよろしくありませんよ。だいたい、抑圧された願望というのは・・・あ、しまった!精神科医に心理学など・・・」
私は慌てて言葉を引っ込めて、すっかり恐縮して詫びたが、先生は変わらず笑みを湛えたまま「いいよいいよ」と頷く。
その先生の背後には書斎兼診察部屋があり、開け放たれている扉の向こうには「精神」「心理」「フロイト」「ユング」「学会」「論文」「薬」「解剖」などの文字が躍る本棚。机上にはカルテの山。論文の執筆でも始めたのか、原稿用紙の束も載っていた。
「まぁ、千代さんのことは置いておいて、君、どうだね。眠れるようにはなったかい」
「ハァ、いただいた睡眠薬のお陰か、寝入りは」
結婚問題はさらりとかわされ、あっという間に形勢は私の不利となった。
「悪夢は、まだ?」
「見る夢は全て悪夢です。中でも、やはり・・・」
「十年経っても」
「もう十年、まだ、十年・・・」
「うむ。十年ひと昔なんて言うが、あっという間さ。場合によっては、つい先日の出来事のようにも思えるからね、無理はない。そう・・・私も時々、君のことを野間大尉と呼びそうになるよ」
「・・・・・・」
「すまないね。診察に来たのではないというのに、こんな話」
「いえ・・・」
鳴きやむことを知らぬ蝉の声が、銃声と爆発音と悲鳴にとって変わる。
あちこちで衛生兵と医師を呼ぶ声、吹きつける真冬の風は肌を刺すようだったのに、寒いという感覚はなかった。
握りしめた拳銃の重さ。真っ白い雪の上に散った赤いもの。誰かの手。誰かの脚。誰かの・・・・・・


<野間!早く行け!>
―――杉野!


「野間君、大丈夫かい」
先生が私の肩に手を置いた。ハッとした私は目を瞬かせて覚醒した。
まただ。また、先生の言うところの「フラッシュバック」が起こった。
「鼻から息を吸って、ゆっくりと吐きなさい。大丈夫だ、すぐに落ち着く」
夏だというのに両手は冷えていた。
動悸、過呼吸、不眠、悪夢、頭痛。自責の念―――
私は一個隊を預かる人間だった。
部下を死なせたならば、上官が責任をとって後を追うのは当然のことであると、少なくとも、当時はそのように考えて実行しようとした。
しかし、私は―――


「すっかりお待たせして。とうもろこしが茹で上がりましたわ。おビールも冷えました」
千代さんの弾んだ声が、私をもう一度、現在に引き戻してくれた。
「さ、野間さん、冷えたところをどうぞ」
「これは、どうも」
「私は手酌でやるよ。千代さんも飲むかい?」
「ま!私がビールを飲めないのを知っていらっしゃるくせに」
明るい笑い声に私の動悸もようやく治まってきた。
千代さんはいいひとだ。明るくて、よく気が利いて裏表がなく、「きれいに生きている」・・・そんなひとだ。
だからこそ、先生には相応しい。ここを終の棲家として、千代さんと二人、真の夫婦となって心豊かに生きて欲しいのだ。共にあの地獄を見、くぐり抜けたという、深い闇の底でひっそりと、だが強く結びついた絆・・・そんなものを先生に対して感じている私は、すっかりその優しさと頼もしさに寄りかかり、甘えきっている。
事実、この苦しみを心から理解し、共感できるのは、軍属としてあの列車に乗っていた「大沢医師」しかいないのだ。他の生存者は全国に散り散りになって消息は知れない。会って苦しみを分かち合いたいと思ったこともあったが、止した。先生もまた、「やめておいた方が良い」と。
一方で、反乱軍を指揮した一部の兵は投獄され、終身刑、または死刑という判決が速やかに出た。
その他の兵は未だ牢に繋がれている。もちろん、あの場で死んだ者もいる。
私が殺した兵は、いったい何人だったろうか。
「正義」という名のもとに、私たちは我を忘れ、殺し合ったのだ―――


「あら、夏椿が咲きましたわね」
顔をあげた私は、千代さんの視線の先を追った。真っ白い顔をした花が、庭の隅に浮かんでいた。「あれは何の花です?」
「シャラの木というらしいが、椿そっくりの花が夏に咲くのでね、夏椿ともいうんだ」
「ほう、初めて見ました。なかなか綺麗なものですね」
「ここに越してきた時、管理人が言ってたよ。前に住んでいたひとが植えたんだとね。しかし、戦死したそうだ。妻子がいたらしいが、ここを引き払って里に戻ったらしい」
「先生ったら、この花にご執心なんですの。昨日なんか蕾をつくづく眺めながら、咲きなさい、咲きなさい、私が愛でてあげるから、安心して咲きなさい、なんて、呪文みたいに」
ほほほ、と笑った千代さんの顔は、その夏椿によく似ていた。
「そうだわ、枝豆も茹でましょうね」
「千代さん、もうお暇しますから、お構いなく」
引き留める私を「よろしいじゃありませんか」と逆に引き留め、千代さんは再び台所へ戻っていった。
「ここ数週間は暇で、私と二人きりだったからね。役人でもセールスでも、客がくると嬉しいらしい」
空になった私のコップにビールを注ぎながら、先生は「やれやれ」と、満更でもない顔で首を振った。
「温くならないうちに飲みたまえ」
「は」
先生は自分のビールをぐいと飲みほして、無精ひげについた泡を拭うと、視線を椿に戻した。
「あの花はね、一日花なんだ。たった一日で、赤い椿と同様、頭からポトリと落ちる。それは見事な散りざまさ。それを見て、我われは哀れだと思い、その短い命を儚んで惜しむ。しかし当の椿は、そんな運命を哀しいと思っちゃいない。己を美しいとすらも思っていないんだよ。花はただ、そこに在る。そこに咲く。そして時期がきたら、散る。翌年にまた咲いて、また散ってゆく・・・野間君」
「はい」
「喜怒哀楽なんてものは、自然には無いものだ。それを感じているのは人間を含めた動物ぐらいのものなんだ。自然はひどく淡々としたもので、それはもう、味気ないほどに乾いてサッパリとしたものさね。芽吹くも枯れるも、咲くも散るも、そこに喜びも悲しみもない。時期がきたら咲く。時期がきたら散る。我われ人間のように、生きたいとも死にたいとも思っちゃいないんだよ。生への執着、死への恐怖。それがなくなった時に、人間も、偉大なる自然の一部になれる気がするんだよ」
「生きたいとも、死にたいとも・・・ですか」
「いま、君は死にたいかね」
「・・・いや、それは・・・」
「では、生きたいかね」
「人間の本能として、生きていたい・・・気がします。先生」
「うん?」
「私はあの時、ほとんどの部下を死なせてしまいした。和平交渉を成功させ、全員、必ず生きて国に帰す、そう思っていたのに。彼らも、生きたいと必死に願っていました。死への恐怖に抗って抗って、最期まで、死にたくない、生きて帰るのだと・・・。しかし僕は、そうしてやれなかった。その僕が、死んで詫びることも許されず、今もこうしてのうのうと生きている。生き地獄です。奈落の底です。もし地獄というものが存在するのなら、いま我われが生きているこの世界こそが地獄だとは思いませんか。確かに先生の仰る通り、自然からみたら人間なんてものは不自然な生き物でしょうね。でも、それが愛おしいじゃありませんか。いじらしいじゃありませんか。七転八倒しながら、もがきながら、それでも明日への希望を捨てきれず、生きてゆくしかない人間というものが。人間は植物とは違います。そうやって、のたうち回りながら生きていったっていいじゃありませんか」
先生は少し驚いた様子で私の横顔を眺めていた。
そうして、私自身も、この口から無意識に飛び出した言葉に、密かに驚いていた。
長年、否定し続けてきたこと。一生涯できるわけがないと、向き合うことすら止めたこと。
「先生・・・僕は―――」
先生は目を細め、まるで父親が息子の成長を認めた時のように大きく頷き、言った。
「野間君、君はもうすでに、自分自身を許す力を身につけている。いま僕はそう確信したよ。君は何があっても生きてゆくしかないと頭では理解していたが、肝心の心が否定し続けてきた。自責の念・・・それが君自身の首を絞め、目の前にある幸福を見ようとせず、受け取ろうともしなかったんだ。自分を罰することで許しを得たい、苦しみ続けることで償いたい、そう思い続けた。君はいま、人間は植物とは違うんだ、のたうち回りながら生きていったっていいじゃないかと言ったね。その「人間」というのは、自分自身のことだよ。君はそのことに気付いてハッとしたのだろう?君はやっと、自分自身に許可を出せたんだ。自分は生きていていいのだ、と。そう・・・もしも、生き続けなければならない理由が欲しいというのなら・・・十年前、あの椿のように潔く散った彼らを思い出し、彼らが教えてくれたいのちの伝言を、後の世にまで伝えてゆく・・・二度と同じことが起こらぬように、君は己のいのちをもって伝えていく役目がある・・・私はそう思うよ。いや、押付けはしない。君の人生だからね」


その翌年の春、うららかな午後の陽気に誘われ、近くの公園でも散策しようと家を出た私は、地面に咲いた真っ赤な椿を見た。隣家の垣根に植わっている椿の木。そこから、ぽとりぽとりと花が落下したのだ。
そこの家の奥さんが箒と塵取りをもって出てきて、私に軽い会釈をする。
「今年も立派に咲きましたね」
「ええ。けれど、散ると汚くって・・・」
椿はあっとう間に、砂埃や煙草の吸殻と一緒に片付けられた。
「お散歩ですの?」
「あまり天気がいいものですから」
「本当にいいお天気ですこと」
箒で掃き払われた椿の姿が、歩いている間中、私の脳裏に映っては消えを繰り返していた。
赤い椿、白い椿。
その花びらに、あの列車に乗っていた若者たちの顔が浮かんでは消える。
『自然というものは淡々としていて、味気ないほどに乾いてサッパリとしている。芽吹くも枯れるも、咲くも散るも、そこに喜びも悲しみもない。時期がきたから咲く。時期がきたから散る。我われ人間のように、生きたいとも死にたいとも思っちゃいないんだよ』


公園のため池を渡る風はひどく快かった。
―――あれから先生は、どうしておられるだろうか・・・
昨年の秋以降、私の不眠は治まり、激しいフラッシュバックや不定愁訴もほとんど消え去って、診療所からすっかり足が遠のいている。
正月に年賀はがきが来て、元気にしているということは分かっていたが。
―――今度、寒中見舞いがてら、先生の意見を聞きに伺おう
私は、あの時の、あの事件の真相を原稿に落とす作業を始めている。
『彼らのいのちの伝言』を遺そうと決意したからだ。
まだ関係者が存命だからとか、君のいのちが危うくなるやも知れぬとか、さんざん周囲に脅され、止められもしたが、例え身の危険を感じても、私はこの仕事をやり遂げる覚悟だ。
先生のあの言葉がなければ、私は今も苦悩し、牢獄に囚われた思いで、いよいよ世間を恐れ、物陰に隠れるように生きていたかも知れない。あの時、先生は『役目』と言ったが、今の私にとっては『生きがい』になりつつある。真の信念というものは、自身を支える命綱にもなり得るようだ。

「おじちゃん!」
ベンチに腰掛け、ぼんやりしていた私の傍に、小さな坊やが立っていた。
「なんだい?迷子にでもなったの」
「違うよ、手をだして!これあげる!」
力強く私の手の平に置かれたのは、つややかな蜜柑ひとつ。
「・・・いいのかい?」
「うん」
「そうか、ありがとう」
坊やは満足気に頷くと、「ばいばい」と言い残し、待っていた母親に手を引かれ、公園を去って行った。
私は両手で蜜柑を包みながら、恥ずかしげもなく涙をこぼした。
哀しい記憶のせいではなく、温かいいのちの温もりを、この胸いっぱいに感じたからだった。
―――いつか時期がくるまで、私は生きてゆくのだ。希望は、ここにある。

おわり

※note初めてですので、不慣れな点はお許しくださいませ。また、内容は史実とは無関係です。パラレルワールドだと思っていただければ幸いです。ありがとうございました。


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