よくないことだと思ってはいるよ

 今俺の目の前には小さな女の子がすやすやと寝息を立てて眠っている。
 今年で年中さんになる女の子だ。だから、つまり、今5歳とかそれくらい。
 俺は今年で21歳になる。都内の大学に通う3年生。人生になんの目標もなく生きているテンプレートみたいな大学生。それがよくないことだとは思うけど、かといって今すぐどうにかできるわけでもない。とりあえず今は──この子を寝かしつけることが俺の役目であり、たった今それが終わった。
 また起こさないようにそっと立ち上がり、忍び足で寝室兼子供部屋から退室する。そうっと、そうっと。襖を開けたときに光が入らないように、自分の体を壁にして、素早く部屋を出る。
 音を立てないよう慎重に襖を閉めて、耳をドアに当てる──うん、大丈夫だ。ぐっすり眠ってるっぽい。
 仕事を終えて一段落。両腕を回して首も回す。1LDKの6帖のリビングに隣接したキッチン。言い方を変えればダイニングキッチンだ。ガスコンロ2口のいかにも一人暮らし用みたいなキッチンスペースで、1人の女性が調理をしていた。
「すずちゃん、寝ましたよ」
 華奢な女性の背中へと俺は声をかける。彼女はピクッと一旦動きを止め、またすぐに再開する。
「うん、ごめんねアキユキくん、ありがとう」
 女性が俺に返事をしながら調理を進めていく。時刻は現在夜の8時、これからご飯というわけではなく、明日のお弁当のための仕込みだった。
 ひとまず仕事を終えて俺はさてどうするべきかと首に手をやりながらリビングのど真ん中で立ち尽くす。
 明日も10時過ぎから講義があるし帰ってシャワーを浴びてさっさと寝てしまおうか。
「ねぇアキユキくん。ちょっと来て」
 キッチンから声が聴こえてきた。彼女のお望み通り俺はそそくさと黙ってキッチンへ行く。
「なんですか、蛍さん」
 少しだけ距離をあけて、彼女の名前を呼ぶ。首より少し上の位置で結んだ細くて長い髪の毛をフワリと揺らし、蛍さんがこっちを向いた。
「これ、卵焼きちょっと味変えてみたから。食べてみて」
 蛍さんが細い指で卵焼きをつまみ、俺に差し出してきた。若干たれ目気味の大きな目が上目遣いで俺を見つめてくる。
 マジかよと思いながら、俺は蛍さんの指から直接卵焼きを食べる──ことなどせず、普通にもらって自分で口の中に運んだ。
 もぐもぐと咀嚼する。基本甘めの卵焼きしか作らない蛍さんだが、今回の卵焼きは少しだけ甘めだった。
「……どう?」
「あー……少ししょっぱめなんですね。美味しいです」
「ほんと? すずもいけそうかなぁ?」
「んーまぁいけるとは思いますよ。甘いのもあるといいかもですけど」
「えー? 甘いのも作るの?」
「まぁ、余裕があれば」
「んー……考えとく」
 切った卵焼きを保存用の容器に入れて蓋をする。ふと見ると卵焼き以外にも色んなおかずが並んでいた。その中には今日食べさせてもらった水菜の肉巻きもある。
「アキユキくんは甘いのとしょっぱいのどっちが好き?」
 保存容器を冷蔵庫にしまいながら蛍さんが聞いてくる。俺はさっき食べた卵焼きとすずちゃんから分けてもらった甘い卵焼きの味を思い出した。
「あー……俺はしょっぱいのの方が好きかもしんないですね」
「ふーん、じゃあ、今度お弁当作るときはしょっぱいのにしてあげる」
「え、マジっすか? ありがとうございます」
 咄嗟にお礼を言ったけど、実は蛍さんにお弁当を作ってもらったことなんて一度もない。いやまぁそういうのを求めてるわけじゃないから別にいいんだけど。なんでそんなこと言ったんだろう。
「明日はー? 授業何時からなの?」
「明日ですか? 明日は……えっと、10時過ぎです」
「じゃあゆっくりだね」
 意外とそうでもない。大学からは2駅分あって、自転車で行くと20前後だがそれでも普通に遅刻するときもある。俺が寝坊しなければいいだけの話なのだが。
 とりあえず味見も終わったし帰る流れなのかなぁと思っていると、蛍さんがエプロンを外してソファーにかけ、壁際のテレビ台の上に置いてあるゲーム機のコントローラーを手に取った。
 ぼすんっと勢いよくソファーに座る蛍さん。ぼーっと見ていた俺と目が合うと、彼女は微かに口角を上げて小首をかしげ、ポンポンとソファーの空いているスペースを叩いた。座れということなのだろう。
「どこまで進んだんですか?」
 途中でリモコンを操作してテレビの電源を点けながらソファーに座る。蛍さんはポチポチとコントローラーのボタンを押しながらぐでんと足を伸ばした。
「えっと水のなんかダンジョンみたいなとこ入ったんだけど、ボスが、ボスめっちゃ強くない?」
 むぅっと唇を尖らせて、蛍さんが画面を操作する。
 七海蛍さんは子持ちで美人で小悪魔なお隣さんで、27歳の女性だ。
 小さい顔、大きな瞳、カワウソのような小動物的な可愛らしさを持った彼女は基本的に警戒心が強いのだが、一度大丈夫だと思った相手にはある程度、いや、かなりゆるーくなるらしい。
 ここまで信用を得るのも大変だが、信用を得たあともなんだかんだで大変だ。そう簡単に手を出すわけにはいかない。襖の向こうには蛍さんの愛娘であるすずちゃんが寝ているのだ。ふんばれ俺の理性。ここで大胆な行動は絶対にNGだ。お前じゃねぇ座ってろ。
「水のダンジョンっていうと……ああ、ここですか。ここのボス結構面倒ですよ」
「うん、めっちゃ強いし。どうやって倒すの?」
「あーそいつはですねぇ……」
 蛍さんがゲームを進め、俺が横で攻略法を話す。
 2週間前くらいからずっと続いている光景だ。奥の部屋ですずちゃんが寝ているので、少しだけボリュームを落として喋ることももう慣れてしまった。
 俺も蛍さんと同じようにソファーの背もたれに身を預けリラックスした状態でゲーム画面を眺める。
 元々ゲーム好きでインドア派だったらしく、蛍さんゲームのセンスはそれなりだった。少なくとも見ててイライラするなんてことはなかった。まぁそもそもこんな綺麗な人とこんな近距離で話すことができる時点でイライラすることなんて滅多にないのだが。
「あ、ここですよ。ここのタイミングで真横に走れば」
「どこ? どこのタイミング?」
「ほら、敵が槍を構えるあの瞬間に」
 因縁のボス戦だ。さっきまでリラックスした状態でプレイしていたのに、蛍さんはいつの間にかコントローラーを握りしめて胸の前に持っていき、前のめりになっていた。何度か見たことがある体勢だ。
「え、今? いまっ?」
「まだです。もうちょっと……あーいまいま」
「よこっ? まよこっ? わっ、わっ……よけたっ! よけれたっ!」
「そしたら距離詰めて攻撃すれば……」
 蛍さんが興奮した様子でカチャカチャとコントローラーを操作する。
 2回目以降はコツを掴んだのか、無言で敵の攻撃をかわし、逆に攻撃を叩き込んでいく。
「もう終わる? 終わるかなぁ」
「多分もう少しで……あっ、倒した」
「え? ほんと? ほんとだ、倒した倒した」
 見事ダンジョンのボスを倒した蛍さん。「やったー」と言いながら伸ばした足をパタパタと動かした。
「いぇーい、倒せたぁ」
 蛍さんが俺の方を見て、コントローラーをかしゃかしゃ振りながら無邪気に笑う。めちゃくちゃ可愛いなと思いながら俺は「やりましたねー」なんて適当な返事をする。
「ありがとう、アキユキくんのおかげだね」
「いや、そんな。大したことじゃないですよ。蛍さん上手かったし」
「ほんとに? ふふっ、ありがとう」
 ニコニコと上機嫌な様子で蛍さんがゲームを進める。彼女の嬉しそうな横顔を見て、俺は胸の内がゆっくりと温かくなっていくのを感じ取った。
「あっ、アキユキくん。時間大丈夫? もう11時だけど」
 しばらくゲーム画面を眺めていると蛍さんが壁掛け時計を見上げながら呟いた。
 上着のポケットに入れていたスマホを取り出して時間を確認すると、確かにあと5分程度で夜の11時を回る頃だった。すずちゃんを寝かしつけてからもう2時間以上経っていたらしい。
「あーそうっすね。そろそろ帰ります」
「はーい、じゃあ私もここら辺でやめよっかな」
 俺が立ち上がると同時に蛍さんがデータをセーブする。かるーく忘れ物がないか確認し、上着を羽織る。
 玄関まで行くと、わざわざ蛍さんが見送りに来てくれた。どうせ隣の部屋に移動するだけなので、半ば靴を履き潰すようにして玄関に立つ。
「すずのこと、いつもありがとうね」
 蛍さんが困ったように笑う。俺は曖昧に笑い、ドアノブに手をかける。
「あの子私とおんなじで人見知りみたいで、保育園でもあんまり友達多くないみたいなんだけど、アキユキくんにはなついてるから……その、鬱陶しいと思うけど、仲良くしてあげて」
「もちろんですよ。ていうか鬱陶しいなんて思わないです」
「ほんとに? じゃあ私は?」
「え?」
 母親らしい娘を心配するような表情から、急にいたずらっぽい笑みを浮かべ、蛍さんは俺の顔を覗き込んできた。
 私はって、いったいどういう意味なのだろうか。突拍子のない質問に俺は彼女の顔の傾きに合わせ、油が切れた機械のようにゆっくりと同じ方向に顔を傾けることしかできない。
「あ、あの……どういう意味で」
「わかんない?」
 一歩こちらへと近づき、蛍さんが背伸びをして間近に迫る。
 手を後ろで組んで、胸を張るようなポーズで蛍さんに迫られる。大きな瞳が俺を捉えて離してくれない。
 吐息が届く距離まで近づいて──俺は耐えきれずバッと勢いよく顔を背けた。
 口に腕を持ってきて呼吸をする。自分の吐く息が熱い。
 ふと、蛍さんの方を見ると、いたずらが成功した子供みたいな表情でニヤニヤと笑っていた。
「あの……もしかしなくてもからかってます?」
「んー? なにが?」
「いや、だから……なんでもないっすわ」
「そう? じゃあ……おやすみなさい、アキユキくん」
「……おやすみなさい」

 ◆

「ただいま」
 靴を脱ぎ捨ててとぼとぼと歩き、そのままリビングへと入る。
 ソファーに向かって思いっきり倒れ込む。ドッと疲れが涌いてきて、少しも動けなくなった。
「また隣の七海さんのとこ?」
 ソファーに突っ伏してぼーっとしていると、頭の上から声が聴こえてきた。一緒に住んでいる弟の
声だ。
 どうにか体を動かして横向きになり、弟がいるであろう方を向く。弟はスマホを持ったままごろごろと寝転がっていた。
「そう、お子さんを寝かしつけてた」
「ふーん……それだけ?」
「それだけだよ」
「へぇ……」
「なんだよ」
「べつに」
「……なぁ」
「なに」
「不毛だと思わないか」
「なに?」
「我ながらめちゃくちゃ不毛だなって、ときどき思うよ」
 ムクッと弟が起き上がる。
 なに言ってんだこいつみたいな視線を受けながらも、俺はソファーで横になったままふぅーっと深く息を吐いた。
「こんなことしたって別に蛍さんと付き合えるわけでもないのに、なにやってんだろうなって思うよ」
「子供に媚売ってまですることかって?」
「いや、別に媚売ってるわけじゃないけど……」
「ていうかなに、付き合いたいの?」
「いや……付き合いたい、わけではないのかも……」
 唇をわなわなとさせて、俺は思い悩む。
 蛍さんのことは好きだ。美人だし、優しいし、無邪気で気さくだし。わりとめんどくさがりなところもちょっと可愛いとすら思ってしまう。隣じゃなかったら度々「好きだー!」って叫んでいたかもしれない。
 本当に好きなのかもしれない──かもしれないけど、付き合いたいかと聞かれると素直にはいと言えない自分がいる。
 だってなんか想像できない。蛍さんと付き合うということは、必然的に娘のすずちゃんもついてくる。2人でデートに行ってきゃっきゃするんじゃなくて、3人でどこかに出掛けるのだ。子供が楽しめる場所。
 それってなんか、大事なところをすっ飛ばしてるような気がする。別に子供が嫌いなわけじゃない。すずちゃんがほんの少しやんちゃだけど、でもいい子だ。可愛いし。
 それに、そもそも蛍さんが年下好きなのかだ。俺のことなんて便利な大学生のガキ程度の認識かもしれないのだ。そうなったら付き合う付き合わないの話ではない。
「まぁ……なんていうのかな。今の適当で曖昧な関係が丁度いいっていうか。これ以上先に進む気はないっていうか。多分、向こうもそう思ってるよ」
「なんか、不健全だな。そういうのやだわぁー」
 うーわっみたいな顔で弟が俺を軽蔑する。
 冷たい眼差しから逃げるため、俺は仰向けになって目を閉じた。

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