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劇場

 劇場に通うようになって二年半が過ぎた。ところで、ここでいう劇場とはストリップ劇場である。
 なぜそんなところに通うのかと言えば、ステージがとにかく面白いからだ。
 こんなに面白いステージが見られる場所はおそらく他にない。しかも、平日休日時間を問わず、いつ行ってもいい。大抵昼から夜までぶっ通しで公演は行われている。平日の昼間のほうが動きやすい身分としては、こんなにありがたい場所はない。

 でも、それだけでは拭い去れない摑めなさがあるだろう。だいいち、そんなに何度も「通う」というのがどこか変だ。
 これには簡単に答えが出せる。
 ストリップ劇場とは往々にして、寄り合い所みたいな場になっている。カフェ、居酒屋、バー、スナック、なんでもいいが、劇場もまた人が寄り付く場所なのだ。そういう場所で、面白いステージをやっている。あるいは、そういう場所でやっているステージだから面白い。これはもう、切り分けができないことだ。
 いっそ、劇場とは庭のようなものだと言ってしまえばいいかもしれない。その空間、環境、つまり、全体なのだ。ステージが面白いということと、居心地がいい寄り合い所であることは、ほとんど同じような水準で感じられる。

 たぶん、映画館や美術館ではそういうことは少ないのではないだろうか。より精確に言うなら、そうした関わり方をする人は少ないのではないだろうか。そこは「作品」を見るための容れ物にすぎず、快適であればいい。それはハコのほうでも、すぐれた音響体験や、名作の解説をリアルタイムで行う装置なんかを用意することで、いわば機能的なアプローチをして客を呼ぼうとしていることからもうかがえる。

 その点、劇場はどちらかといえば不便ですらある。時間つぶしの必需品となっているスマホの取り出しは防犯上の要請で一切できないし、そもそも、椅子もボロいか簡易的なもの。長く腰掛けるのに向かないから、慣れた客は自前の座布団を持ち込むこともある。音響だって頼りない劇場がある。照明もどうだろう、決して立派とは言えないところもある。浅草ロック座なんかに行けば尋常な「劇場」らしい満足が得られるかもしれないが、むしろそうした劇場のあり方が異例だといえるほどには、前時代的な環境に設えられているのが普通だ。
 ところで、こうした不便の一部は、半ば恣意的に押し付けられている現行の法律にもよる。劇場は改築・新築などが一切できない。興味があったら調べてみてほしい。ストリップ劇場というのは、放っておくとそう遠くない未来に消え去ってしまうのだ。

 そうした消え去るものを惜しむ気持ちで、または〝ディープな文化体験〟として好奇心がわくこともあるだろう。実際、劇場には一見さんと呼ばれる劇場初体験と思しき客がいる。そう、わざわざ「一見」などというくらい、劇場には慣れた客しかいないわけだ。そして、一見さんというのは一瞬でわかってしまう。
 大事なことは、踊り子も客も、彼ら彼女らに対してきわめて 親切にするのが劇場の一般的な空気だということだ。2年半通っていて──よほど品のない客でなければ──一見さんがぞんざいに扱われる様子は一度も見たことがない。新しいお客さんを歓迎しなければ、この業界はやっていけない。そうした功利的な判断が踊り子にも客にもないわけではないし、熱心に新しい客を呼び込もうとする動きは絶えずある。
 しかし、そうした考えに先んじて、そもそも劇場には歓待のムードがあるといったほうが、私の実感には合っている。だからこその寄り合い場、または庭、なのだ。
 排他的な雰囲気の場というのがあるだろう。常連ばかりが騒いで居づらい店とか、身内で固まったギャラリーとか、実のところ世の中にはそうした場所ばかりではないか?だが、劇場はそうではない。

 ステージがあるということ、共にそれを見たり見なかったりするということは、歓待のための風通しを確保している。ステージに華やぎを添えるために一部の客がタンバリンを叩いたり、リボンと呼ばれるテープを投擲したり、めずらしい振る舞いもあるにはあるが、黙してステージを見る時間には上下も何もない。平等に面白く、平等に退屈な時間があるだけだ。
 さらに、どんなに芸歴の差があっても、その差が客前で序列として明示されることはない。持ち時間も音響も照明も、すべてが等しい。そして客席にはS席も天井桟敷もない。気力と時間とあるいは運があれば最前列の「かぶり」に座ることもできる。写真を買う時間はあるが、それを強引に売りつけようとする人は誰もいない。興味がわけば列に並べばいいし、ないなら本でも読むか外に出てスマホでも見ていればいい。慣れれば、もしくは最初から、うっかり気のいい顔見知りができれば、いつしか劇場は集う場所になっていく。居心地のいい場所になっていく。だから私たちは劇場に通うようになる。

 だが、劇場を庭といったのは、そうしたコミュニケーションの快さだけではなく、むしろわずらわしいコミュニケーションなしに、ただじっとひとりになれる場所でもあるからだ。たとえば平日の、そう、場内に10人も客がいないような時間が時々ある。客が少ないからといって手を抜くような踊り子はまったくと言っていいほどいない。いつもと変わらず踊り子は真剣である。そうした時間を過ごしていると、気持ちがどこまでも穏やかになっていくのに気づく。たった10人足らずでステージを共有していると、芸を見ていると言うより、夕暮れに佇んでいるような気分になることがある。
 きっと誰にでもある。何もかもが静かに遠のいていくだけの時間にわずかな間でも心を明け渡した記憶が、誰にでもある。毎日変わらずに繰り返すだけの夕暮れが、まるで浸るようにして身に入ってくることがある。そうした染み入りに身体を委ねることは、どこまでも気持ちがいい。
 
 劇場にいる間、ステージを見ている間は何かを考えてもいいし、何も考えなくてもいい。人に囲まれながら、人を囲みながら、自分自身へと心ゆくままに、まるでふかふかのソファにでも腰掛けるように深く沈み込んでいく。劇場とは、そうした場所である。

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