中上健次「重力の都」

前から紹介したいと思っていた(自分自身のためにも)。それがどうしてこう長引いたのか。

朝早く女が戸口に立ったまま日の光をあびて振り返って、空を駆けてきた神が畑の中ほどにある欅の木に降り立ったと言った。朝の寒気と隈取り濃く眩しい日の光のせいで女の張りつめた頬や眼元はこころもち紅く、由明(よしあき)が審(いぶ)かしげに見ているのを察したように笑を浮かべ、手足が痛んだから眠れず起きていたのだと言った。女は由明が黙ったままみつめるのに眼を伏せて戸口から身を離し、土間に立っていたので体の芯から冷え込んでしまったと由明のかたわらにもぐり込み、冷えた衣服の体を圧しつけてほら、と手を宙にかざしてみせた。どこに傷があるわけでもないが、筋がひきつれるような痛みが寝入りかかると起こり出して開け方まで続いたと女は由明に手を触わらせた。

「重力の都」冒頭段落より

この、アホみたく長く、アホみたく続く段落のせいである。
しかも、(確か)中上健次本人の原稿では、そもそも段落の存在がなく、段落分けは編集者が作った、と聞く。

と、いうことで、ちょっと引用しながら話すのが難しい作品だ。
そこで先に作品情報から。
まず、この作品は谷崎潤一郎へのオマージュ(本人の言葉だと「和讃」)として書かれた短編群であり、(「刺青の蓮花」と「愛獣」を除き)すべての作品で登場人物が視力を失う。
全6篇。
(あくまで筆者の)評価としては
「重力の都」A+
「「よしや無頼」B
「残りの花」B−
「刺青の蓮花」B
「ふたかみ」A+
「愛獣」C
というところだ。

すでに引用した「重力の都」では、由明と女の物語(この言葉を中上健次作品で使うのにはややためらいがあるが)が展開される。
土方仕事をする男と女の(濃密な性を介在させた)関係。中上健次の十八番と呼んでいいだろう。
「伊勢の墓に葬られた御人」が「女の体をこれがくるぶし、これがひかがみ、これが女陰とまさぐる」と「御人の肉や筋が腐って溶けてしまう時の痛みが女に伝わってくる」のが冒頭。
そして話はそれだけのことを、繰り返しながら続く。(この中上健次の文章の持つ反復性も、引用を難しくしている)
最後に女は「針で目を突いて盲いさせてくれ」と由明に頼む。「御人が酷くするのなら今ここにいる由明も同じような酷い事をしてくれと」。そして由明は女の「自分の顔がうつった黒目に針を突き刺」す。

これだけ聞いても分からないし、本文に当たるのが一番だと思うが、言ってしまえば「人為的に視力を奪う」「悪」と、「性」―特に中上健次において性描写は、「命」そのものを示す傾向がある―「生」が重なる。
「由明は女の声を耳にして雪の中に一人素裸で立っているような気がして身震いした。」
これが「重力の都」最後の文章だ。
女の視力を奪い、暗闇を与えた由明が、「雪の中に」いる。想像力のなかで黒と白が混ざり、生と死が、善と悪が、命と腐敗が混ざる。伊勢の御人と由明が重なるように。

あくまで筆者はこう読んだ、ということであり、本文はさらに豊かなものだ。ぜひ、と言っても手に入れにくいのが現状なのだが。

「よしや無頼」。中本の一統シリーズに近い作品で、後述する「刺青の蓮花」も同様―つまり、美青年が活躍する。名前は吉光。
ちょっと補足。この一つ前の短編集「千年の愉楽」の方で、「オリュウノオバ」という人物が出てくる。
中上健次のゆかりの地、被差別部落をモデルにした「路地」のことを何でも知っているおばあさんで、若くして非業の死を遂げる命運の「中本の一統」―女好みでもある、ここにも中上の「性(生)」と「死」の混ざるモチーフが見られる―を語る狂言回しの役割を作中果たす。
「よしや無頼」では「イモリの松」という人物が、「オリュウノオバ」の役割を果たす。
しかし、その役割は「オリュウノオバ」に比べて遥かに弱い。
トリックスター的人物で、「町の者からは忌み嫌われている」彼は美青年「吉光の実の叔父」にも関わらず「(略)狭い額、太く黒い汚点(しみ)のような眉、狡猾(ずる)さしかないと分かるイモリのようなチロリと動く目、性偽善を為すと生れついたひしゃげた鼻、嘘しか喋らぬと分かる薄く寒々とした唇」の持ち主。
「よしや無頼」はこの男、イモリの松が吉光を操ろうと四苦八苦する話が本文のかなりの部分を占めている。
ここは長く感じるし、肝心の美青年吉光のストーリーを薄めてしまっているとも思う。

話が進むにつれ、このイモリの松は吉光を操るどころか、吉光に利用された男であることが分かってくる。
吉光の「こたつの中に首をおさえつけてぐいぐいねじこ」む「凄まじい折檻」の途中、イモリの松は「中にあった炭と灰で眼を傷つけたのが元で盲になってしま」う。
しかし彼はそれを恨まない。「不具の潰れた眼は本当に仏の加護の賜だと」感じる。
それは吉光が「荒くれの喧嘩」―吉光も荒くれを従えている―の最中に「血だまりの中で死ぬ吉光を見ずにすむ」からである。

無意味な死を遂げる美青年、「仏の生れ変り」、歌舞音曲を愛するなど、吉光は中本の一統の延長線にある人物造形と言ってよいだろう。惜しむらくはイモリの松の話が長すぎる。それなりの魅力はあるのだが。

最後、イモリの松の述懐で終わるのは、「千年の愉楽」と似ているが、彼はオリュウノオバのように物語から身を起こした超越的な人物ではなく、しょせん荒くれの一人に過ぎない。
イモリの松の(「奇蹟」のトモノオジとどこか似ている)相対化された世界で美しいものが失われゆくことに耐えねばならないその姿は、むしろ美青年吉光の説話性より、私は好きだ、より人間的、世俗的で。後期中上の中年の男たちはもっと評価されていいと、個人的に思う。

「残りの花」。「刺青の蓮花」と「十吉」という人名を共有する。
路地の解体(同和対策事業)が行われる途中、「はっきり男のものと分かる骨が出たと噂が立った」。
「荒くれ者の」十吉と女の物語。
女は「美くしい顔立ちで体中から女というものの柔らかい肉の香気が立ちのぼるようだった」、しかし、「盲いていた」。
女は十吉の家で「雛人形のように家の隅に坐わり」、その振る舞いは「美くしい鳥のよう」だった。
しかしやがて、「夜となく昼となく」「女のころころした笑い声が」聞こえだす。
十吉と女の(やはり性を介在させた生活は)「破局が」近づいていた。二人は「飯場の金も博奕の金も使い切」ってしまう。

やがて、「ころころした笑い声」は「女の歓びの声だと」分かる。「女が十吉のいない間に、遊び仲間を相手にしている」のだと。
しかし、「その頃から十吉はいなくなった」。
「十吉は戻ってこなかった。」「女は笑い声をあげ続けた。」

おそらくは、女が十吉を(遊び仲間をけしかけてか)殺したのだろう。冒頭の骨は十吉のものだ。
「毒婦」という言葉を思わせる。中上健次の別の小説で「女が悪魔だろうと蛇の化身だろうと行きつくところまで行きつく、それが男ではないか」という下りが(「浮島」か)確かあるが、それを思わせる短編だ。

「刺青の蓮花」。「残りの花」と「十吉」という人名を共有する。
「十吉が背中に美事な朱の蓮花(れんげ)を彫って他所から戻って」来るところから話は始まる。
「よしや無頼」が長すぎると書いたが、「刺青の蓮花」は短すぎる。
「つるべ刺し」という、被差別民と常民の間にある伝統を―「直に手から手へ酒を振る舞うのを避け」つるべを介するところにその差別意識ははっきり見える―(半ば悪ふざけで)行おうとする路地の若者たちの話。
十吉の刺青からことあるごとに血が滲むのは「奇蹟」の、ヒロポンの注射跡から血が止まらなくなるタイチら貴種の姿を思わせる。

「ふたかみ」。「(略)弥平の元に、喜和と立彦が、同じ一統の両親が出奔したという理由だけで引き取られて来た時から」話は始まる。

話が早速飛ぶが、
「(略)(注:弥平は)酒を飲んでいるのですぐに寝ついてしまい、二人が弥平の体を小さな手で撫ぜ廻し、自分らが眠りにつくまで、山に見たてたり海に見たてたり、乳首の小さな突起を空から落ちてきた星に見立てたりするのを知らないでいる。」
この下りには、何より語りの喜びがある(と思う)。それは登場人物が知らないことを自由に語れる喜び、本来視界の外にあるもの、意識の外にあるものを内側に引き込める、一種の「歪んだ視界」の喜びだと、思うのだ。神のまなざしをこっそり奪うような。

話を戻すと、二人は弥平に「架空の話」を「ささや」き虎や戦争などの夢を見せる。
そして「或る夜」弥平は「喜和と立彦の小さな手が性器と陰毛の茂みの上を這い回ってい」ることに気づく。
成人男性と、少年少女の性的関係。この時点でインモラルそのものなのだが、話はまだある。
後期中上作品で、十年は一瞬で過ぎる。そうした客観性のある時間を破壊しようとするように。
それは「ふたかみ」も同様。
そこで大人になった二人が現れ、「ふたかみ」の最後、立彦は弥平と喜和によって目を潰される。

ここから(あまり)「ふたかみ」本筋とは関係ない話。
小説というのは、というか、言葉というものは、すべからく客観性とつながっている。
この前、パレスチナ/イスラエル双方の作家の作品を読んでいたとき、ふと思った。
部外者であるこの私が、殺し合う民族同士の小説をこれほどたやすく読めてよいのかと。
「日本人はドストエフスキーが何人か知らない」とよく揶揄されるように、言葉というものはその個人性、個別性を剥ぎ取り、共有可能にする(してしまう)「権力」を持っている。
だとするならこの「ふたかみ」は「小説」と闘う小説、「言葉」と闘う言葉だろう。
誰にも理解できない狂気のなかで、彼らは生きる。
その分かち合えなさに、私はいつも深く心を動かされる。個人的に、中上健次の全短編において「最良」と呼んでもいいと思っている。
「ふたかみ」を読むたび、言葉というものは分かち合うためだけでなく、分かち合えなさを示すためにあるのだと、強く思うのだ。
はねつけられ、理解できないということに、喜びを感じさせられる。そんな短編だ。

「愛獣」。やはり男女の性を孕んだ物語。
しかし、完成度は高くない。
まず文章について。
中上健次後期というのは、決まり文句が多い。同じ言葉、同じエピソードが繰り返し語られる。
そこにある意図はスムーズな(淀みない)「物語」への反抗でいいと思うのだが、「愛獣」においては、奇妙に語彙が多い。
語彙が多いのは普通いいと思うが、中上健次に関して言えば良くない。
「フライパン」「ガスレンジ」「歯刷子(ハブラシ)」―こうした生活の語彙が現れ、中上の反‐物語的物語をさらに解体している。
そこにあるのは乾いた、何もない現実でしかない。
とにかく、「生活」というのは中上健次の天敵であって、それは生がとりあえず動くだけの、無意味な動き、働きだからなのだがその生活が「愛獣」には入り込んでいる。 
労働もその聖性―秋幸の土方仕事のような―を失い、「手や肌につけるクリームをつくる工場」「廃馬のたてがみや尻尾を」干して「刷毛や弓弦に仕立てる作業所」と、その(「生」に対する)断片性によって、完全に破壊され尽くしている。
中上健次のたどり着いたところは、かくも虚しい地点だった、と、つい思い、これほどの作家が、とも思う。そんな短編だ。

「重力の都」。中上健次作品のなかでは知名度としても微妙だが、「重力の都」「ふたかみ」の二編を読むためだけでも手にする価値がある。
何より、中上健次の文章というのは、読む喜びに溢れている。とても豊かで、鮮やかな文章だ。
ぜひ、読んでみてほしい。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?