森鴎外「半日」他6作感想

まずは「半日」。内容は嫁姑バトル。以上。

ではあんまりなのでもう少し。

まず、主な視点人物は夫、「高山博士」。「高山」は鴎外の「森」から連想してたりするのだろうか。
全編三人称で、嫁姑のいざこざの間に挟まれる高山博士の姿が書かれる。

個人的な面白ポイントは、高山博士が嫁の姑に対する文句を「理性的方面」と「意志的方面」に分けていること。

博士は會計(かいけい)の事を、奧さんの議論の理性的方面と名づけて、母君に對(たい)する嫉妬を意志的方面と名づけてゐる。

世の夫は妻の小言を内心、こんなふうに見ているものかと(筆者は)ほくそ笑んだ。

この嫁の文句は二つある。
(一つ)姑が家の金回りを管理していること
(二つ)高山博士と姑の仲が良すぎること
だ。
しかし、この嫁さんはお嬢様育ちで今ひとつ金銭感覚に乏しい。それにちょっと嫉妬深い。
それで、彼女の要望を博士は今ひとつ聞き届けない。

まあ、それだけの話ではあるが、鴎外が「小説は自由だ」と気づいた頃の作品と言うのは分かる。「舞姫」の、よそ行きの文章に比べてこの「半日」の、控えめなユーモアは温かい。
ま、この後鴎外は史伝ものに行ってしまうんだけどさ。

あと、博士の娘さんがかわいい。玉ちゃん。

その他作品。
「杯」。鴎外の自然主義文学に対する宣戦布告(たぶん)。

というのは、鴎外は漱石と一まとめにされて、「高踏派」「余裕派」、要は
「お高く止まって余裕のある嫌味な奴ら」 
と呼ばれていた。
「杯」はそのしっぺ返しに見える。

あらすじ。冒頭で七人の娘が泉に水を汲みに来る。彼女たちの「杯」は大きな銀色で、「自然の二字」(!)が書いてある(もう隠す気がない)。
そこに、八人目の娘がやって来る。彼女は、残り七人とは言葉が通じない(この辺もドイツ語に堪能だった鴎外の皮肉か)。
しかも彼女の杯は「黒ずんだ、小さい」杯。
七人の娘たちは、寄ってたかって彼女を小馬鹿にし、一方的に憐れむ。
そんな七人娘に彼女は、
「わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴(いただ)きます」
ときっぱり宣言し、泉の水を飲む。

彼女のセリフを鴎外の「自分の文学を追求する」宣言の寓意と取るのはもうくり返し言われているのでここでは割愛する。

ただ、筆者的には「夏」の風景描写が(本筋とは関係なく)良い。

温泉宿から皷(つづみ)が滝へ登って行く途中に、清冽(せいれつ)な泉が湧き出ている。 
水は井桁(いげた)の上に凸面(とつめん)をなして、盛り上げたようになって、余ったのは四方へ流れ落ちるのである。
青い美しい苔(こけ)が井桁の外を掩(おお)うている。
夏の朝である。

ここなど読むだけで涼しい気分だ。

漂う白雲の間を漏れて、木々の梢を今一度漏れて、朝日の光が荒い縞(しま)のように泉の畔(ほとり)に差す。

叙情的な下り。天から地に至る視点の移動が素敵だ。

「里芋の芽と不動の目」。断言する。鴎外は「先にタイトルを考え」後から話をでっち上げたのだ。そうとしか思えない。

主人公の兄は破壊的な進歩主義者。彼らの母親の信仰していた「不動の目」―掛け軸の、を焼いてしまう。
一方の弟は、地道に里芋の芽を選り分ける。
(伸びたものは種芋に、欠けたものは食う)。
人間は里芋側たれ、という鴎外の訓戒か。
いや、絶対面白半分で書いた。

「普請中」。渋いラブストーリー。「舞姫」後日談と思いたくなるけど、(たぶん)違う。「普請中」なのは日本か、それとも彼か。

「キスをして上げてもよくって」
渡辺はわざとらしく顔をしかめた。「ここは日本だ」

「花子」。ロダンが日本人女性(花子)をモデルに彫像を彫っていたとは知らなかった。実話がベースの小話。

「カズイスチカ」。花房医師の成長物語。なかなか展開は熱い。医療ドラマや漫画が好きな人なら楽しめるかもしれない。
カズイスチカとは「臨床報告」のこと。この場合、花房医師の体験する様々なハプニングを意味する。

ここらで省筆(せいひつ)をするのは、読者に感謝して貰っても好(い)い。

鴎外のユーモアは静かだ。

「田楽豆腐」。エッセイ風の作品。まとまったストーリーはない。「半日」を思わせる夫婦が出てくるが、仲は少し良くなったようだ。

作中冒頭、木村(森鴎外を思わせる男、やはり「森」からの連想か)が妻に、
「蛙を呑んでゐる最中だ。」と冗談めかして言う。
これは元々エミール・ゾラの言葉らしい。
新聞で書かれる悪口を、「生きた蛙を丸呑にする積りで」受け流すことを指すとか。
ユニークな言い回しだ。

田楽豆腐とは作中に出てくる植物園の入場箱と、そこの植物の紹介札のこと。
その前、帽子を買いに来た木村が店の子どもに笑われるシーンも良かった。

すべて青空文庫で読める。よければ。

(追記)鴎外の文章は、確かに高踏派と言うだけはあって、筆は描かれるものと必ず一定距離を保つ。
それと暇つぶしをする神さまみたいに、いろんな世界の話をする―喩え話に医者の苦労譚、嫁姑のいざこざ。

それですぐに思い出したのは芥川竜之介。それから三島由紀夫。

しかし、芥川の文章は鴎外より意地悪い。
意地悪も突き詰めると漱石まで行き着くが、芥川はそこまでも行かず、中途半端だ。
それから、やはり芥川の文章は「オチ」から離れきれない気がする。そこは鴎外のほうが融通が利いている。

三島も似ているが、彼は鴎外よりさらに描かれるものと距離を取る。というか、「取ってしまう」。

作者と作品の距離は、読者に信じてもらうときの担保だ。作者が離れず作品のそばにいることが、読者に作品を単なるフィクションと思わせず、一緒に読もうとする動機になる。果ての果ては私小説になっちゃうけど。

それで言うと鴎外はギリギリで、正直もうちょっと近づいてほしい(個人的には)。
三島はアウト。
彼の小説の質の悪いのは、頭で考えた、芥川を薄めたような作品で、読むのは辛い。

鴎外の中期作品は、しかし品の良いユーモアもあって、読むのは(そこまで)辛くなかった。筆者は鴎外が晩年、史伝小説に行かなかった未来を考えてしまう。どんな作家になっていただろう。

漱石も、鴎外も、ユーモアは(割と)見過ごされてきた。日本は元々、「笑い」にそれほど高い価値を置かない文化圏のように思う。
日本のユーモア小説について、今度は調べてみようと思う。
今思いつく限りだと、遠藤周作の「おバカさん」。村上春樹も初期、良い作品をたくさん書いている。大江健三郎も笑いの作家だろう(かなり意志的な)。谷崎潤一郎も忘れてはいけない。最近だと町田康氏か、しかしだいぶ苦い笑いだ。

(追記)「魔睡」を読んだ。
妻(妊娠7ヶ月)が催眠術にかけられ、磯貝という医者に性的暴力を振るわれたのではないか。
そんな疑念を持つ夫の話だ。
村上春樹氏「ねじまき鳥クロニクル」を思い出した。
疑念は払えば払うほど、余計しつこく絡みついてくる(彼は妻のお腹の子どもさえ自分の子か疑う)。その暗闇から抜けるためには何かを信じなければいけない。
その苦しい暗闇を抜けきる力を失った(責めるのではなく)人が、足早に何かを信じようとして新興宗教などの、外側にある信仰にすがるのだろうか。
それは考えるだけで寂しいことだ。

(追記)「ぢいさんばあさん」を読んだ。
よくできた小説だと思う(老夫婦の、こう言うと陳腐だが「絆」が書かれていた、それも何十年という歳月の)が、私はやはり中期の鴎外のほうが好きだ。


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