川端康成文学賞作品紹介(その一)

川端康成文学賞。谷崎潤一郎賞。三島由紀夫賞。日本には、色々な(大家の名を冠した)文学賞がある。しかし、その知名度は実に低い。
今回は川端康成文学賞作品紹介である。賞金100万も出るのだが、知名度は(あんま)ないよね。
今回紹介するのは、私が個人的に読んだやつだけ。だから上林暁とか佐多稲子とかはパスで、割と最近の作品に偏る。

じゃ、早速書いてく。

第十一回受賞:大江健三郎「河馬に噛まれる」

まずはこれ。読んだとき、「よっ、大江屋!」と、屋号を言いたくなるほど傑作。

その前に、大江健三郎という作家の作品を、2020年代の読者の皆さんはどれくらい知っているだろう。どうも「セブンティーン」や「個人的な体験」など初期作品が紹介されがちなのだが。
 確かに、きらめく火花の魅力はある。しかし初期作品一辺倒の読みではもったいないと筆者は思う。大江健三郎はやっぱり後期だ。何より、「面白さ」からして!
「河馬に噛まれる」刊行は1985 年。大江健三郎50歳のときの作品。
扱われている題材は「あさま山荘事件」
引いては連合赤軍問題。そこに作者の生活体験を重ねる。
ただし、この重たいテーマをシリアスに追いこむのでなく、一級のユーモアで語るのが作家の腕の見せ所。
続編に「「河馬の勇士」と愛らしいラベオ」。大江健三郎の書く、したたかな女性が読みたいなら。
(「河馬に噛まれる」ではウンコの話が出てくる。「同時代ゲーム」「宙返り」、肛門を含めるなら「万延元年のフットボール」まで。大江健三郎は「ウンコ」をよく書く作家だ)

第十三回受賞:小川国夫「逸民」

小川国夫といえば、おそらく日本のキリスト教作家として知られているのではないか。

ただし、この「逸民」に、直接聖書の内容が出てくることはない。
話としては単純だ。作者を思わせる人物が何人かの人々と出会った後、鵞鳥が殺される。

これだけ聞くと読者は、「なんだ、退屈な私小説か」と思うかもしれない。
筆者のまとめが悪い可能性もあるが、なるほど確かに「ストーリー」から見れば、この「逸民」はその今ひとつ親しみにくいタイトルとともに、昔の作家の、なんかよくわからない小説に見える。

ここで、聖書の描く「時間」について説明したい。「逸民」を読む上で、筆者が個人的に考えたことだ。少し付き合ってほしい。

聖書では、よく、
「そのときイエスは〇〇をし、ペテロ(とかヨハネ)に言った。『あなたは△△を為しなさい』」
といった文章が出てくる。イエスがなんかやったり言ったりすると、周りの人が驚いたり感謝したりする、聖書の十八番だ。

それ自体はどこにでもある聖者伝説で、筆者だって好きではない。
ただ、一つ引っかかることがあった。つまり
「この文章を流れる時間はいつのものだ?」という問いである。「(新約)聖書」を流れる時間に、筆者は引っかかるのだ。
まず、「新約聖書」がイエスの死後に書かれたことは分かる。
しかし「新約聖書」の文体はその事実に対して、決して懐古的な書き方を選んでいない。つまり、
「かつてイエスという立派な人がいまして、」
という語りの文章ではない。
だからといって、「現在」の感覚があるか、と言われると、それもない。もう少し説明する。
現代の小説はたいてい「文章の流れが自然に生みだす時間感覚」の造る「現在」で動く。「彼女は朝ごはんを食べ、ばたばたとパジャマを脱いだ。制服を(ボタンに指を食い込ませて)着る。あくびして、玄関から外に出ていく。」

このような。しかし、聖書の文章は、そうした一般的な文章の時間感覚も持たない(ように思える)。

それで、筆者は考えた。出た結論はひどく当たり前だった。

「神の時間」が「聖書」の時間だ。

それが筆者の結論である。
「神の時間」は、どうも限りなく「無時間」に近いようだ。人間の「生活」の時間感覚、「今日があって、明日があって、」という一本線の時間を破壊する、ほとんど「死」のような。
だから、イエスはあちこちで人々の営みを「断」つ。イエスは「神の時間」を生きている。「生(活)の時間」とは相容れない。

だから、「神の時間」からすれば、できごとが「いつ」「どこで」起きたかは、あんま重要視されない。暴論かもしれないが、イエスが東京やニューヨークやパリに来ても、それが100年前でも100年後でも、聖書の世界は成立しそうなのだ。

話を戻そう。小川国夫「逸民」の話だ。この一見私小説の小説にも、やはり「聖書」的な時間が流れているのではないか。
たとえば、「逸民」を「鵞鳥を誰が殺したのか」で読む「ミステリー」としての読み方だってあるのかもしれない。あるいは鵞鳥という自然が人間に殺される下りから、人間の残酷さを読むやり方も。だが筆者はどちらもうなずけない。

それは結局、「逸民」を私たちの「生活の時間」から読むことではないか。その一方で、この小説に流れているのは、「聖書」の、「神さまの時」ではないか。鵞鳥は殺される。
そこに、人間が説明できる意味はやってこない。鵞鳥はただ殺される。
それを「運命」と呼んでもいい。

第十四回受賞:古井由吉「中山坂」

古井由吉中期の「怪作」。個人的に「眉雨」が取っても良かったと思う。

さて。この小説、説明するのがすっごく難しい。選考委員の一人が「三回読んだが分からなかった」と、ちょっと怒っていたほど。

あらすじは、女の人がいる。その女の人がおじいさんに馬券のお使いを頼まれる、云々。だが、伝わらないねこれじゃ。

まず、この小説は「説話的」だ。つまり、なんだろうね、ある土地とか、国家の人々が、共通して語れる「おとぎ話」みたいなもの。

ただ、古井由吉はそんなものがもう成立しないことを知っていた。

「中山坂」は1987年の作品。日本は経済成長とともに、かつての地域共同体を急速に失っていた。かつての「共同体」の価値観に代わって、「個人主義」(自民党がヒステリー起こすやつね)が広まり、「違い」がファッション、音楽、車などの消費行動と紐付けられ、ステータスとなった。
言ってしまえばもう、「共同体」の「説話」(話して説く)が通じない時代に、古井由吉はくるっと宙返りするように、「中山坂」を書いた。競馬場という、どこまでも世俗的なモチーフを巧みに使って。

「眉雨」もおんなじことを、違う方法でやっている。もしよければ。



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