『言語はこうして生まれる』を読んで言語学素人がつらつら考えたこと

 昨年3月に邦訳の出たVyvyan Evans『言語は本能か』(The Language Myth:Why Language Is Not an Instinct 2014)に続いてまたしてもノーム・チョムスキー、スティーブン・ピンカーらの「生成文法」説を蹴散らすスリリングで超納得の言語学本が出たので、本noteを始めた意図からは少々浮くけれどもぜひともご紹介したい。「ジェスチャーゲーム」「The Language Game」とちゃんとタイトルにゲームが入ってるし、言語史における様々な疑問が解かれていく様は謎解きの快感にも似ている(というかほぼ同じ!)のでご容赦を。

 本書の帯には「最新科学が明らかにする、まったく新しい言語の姿」とのアオリがあり、「画期的な言語起源論」(養老孟司)他、ドーキンス、エヴェレット等の賛辞で満ちている。恐らくそれらの賛辞は的確で正当なものなのだろうと思うけれど、正直ぼくが読み進める中、また読み終えて思ったことは少し――というか、かなり違うものだ。
 ぼくが思ったのは大体のパートにおいて「そりゃそうだよな」「分かる分かる」「やっぱりね」みたいなものがほとんどで、「なるほどうまい証明方法だな(説得力のある実験だな)」とか「バカでも分かるレトリックだな」とか、そんなのも多い。感心はするけれど、これって本来は20世紀初頭とかなんなら19世紀終わりに書かれていて、言語学の基本テキストになっててもいいような本じゃないのか、ということだった。これが21世紀になってようやく書かれなければならないって、どんだけ言語学には人材がいなかったのかと思ってしまう。そしてこの遅延は恐らく、チョムスキーがもっともらしく飾ったトンデモ説を唱え、なんでかしらんけど当時の言語学者達の主流になってしまったことに尽きるのではないのだろうか。
 本書の訳者あとがきによると「言語生得説が出てくる以前、言語学ははっきりと『文系』の学問で、言語はコミュニケーションの道具だという見方が一般的だったらしい。そこへ数学や生物学などの『理系』的な考えが導入されて、さらに脳や神経系や遺伝子などの研究の成果から、言語生得説が認められていったという経緯がある。」とあるから、それこそ「(当時の)最新科学」の蘊蓄に、初心な「文系」学者たちは幻惑されてしまったのだろうか。
 しかし、当時学生だったモーテン・クリスチャンセンとニック・チェイターの2人は既に主流だった言語生得説、生成文法といった考え方に「懐疑的な思いを抱き」、2人で議論を続けるうちにアイデアを固め、数十年かけて本書を執筆したのだという。ある意味、倒すべき敵がそこにいたからこそ生まれた作品、仮説(どこをとっても正しいとしか思えないけど、一応そう言っとく)なのかもしれない。

 しかしこれでようやく長年理解できなかった「生成文法」説が、ぼくの頭が悪いから理解できないのではなく、単なるデタラメだということはよく分かった。しかしおかげで余計分からないのは「なんでこんなものが主流になってしまったのか」ということだ。チョムスキーはともかくピンカーなんて日本でも一般書の体でかなりの部数を売り上げていて、すっかり「知の巨人」の一人みたいなイメージでさえある。浅田彰が流行ったり「脳科学」の誰やらがもてはやされたり、みたいな「知的ブーム」に乗っかるかどうかみたいな話なんだろうか?
 それとも、「人間だけが言語を取り扱える」「遺伝子レベルで他の動物とは違うからだ」といった“選民思想”を捨てきれない一定数の人達にとっては、生成文法は「直感的に正しい」ものだったのだろうか?
 分からないが、ここ数十年、主流だったというトンデモ説の一翼を担ってきたという自覚がある「言語学者」の方々は是非とも総括をしてもらいたい、と強く願う。


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