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『Qシャーロック』――「謎解き」とゲームの狭間

『Qシャーロック』は先頃グループSNEより翻訳、発売されたスペイン発の謎解きゲーム。極めてシンプルで簡単なシステムで1~8人まで、短時間でお手軽に「謎解き」を味わえるゲームだ。一つのパッケージに三つのシナリオが入っているが、プレイできるのはそれぞれ一度だけ。発売日に早速買ったものの、いまだ続く自粛のため、とりあえず「ラストコール」のソロプレイを行なったが、これは本来の遊び方ではない、と判断(理由は後述)。残りは3人以上くらいで遊びたいなと思っていたものの、まあ2人を試してみてもいいかと自宅で妻(さほどアナログゲームはやらない)と「考古学者の墓」をプレイ。そしてようやく人が集まる機会があったので「7月4日の死」を5人でプレイすることができた。以下、このゲームのシステムとプレイ感(人数の違いも含め)、そしてこれまでマーダーミステリーや『Detective』等の「謎解きゲーム」における不満というか課題について考えたことをつらつら書いておきたいと思う。

 まずシステム。これはもう簡便も簡便、こんなシステムどうして今まで誰も考えなかったんだろうというくらい簡便。要は、謎解きの手がかりがすべてカードになっていて、シャッフルして3枚ずつ配る(2~7人の場合)。各人その手札を見て、重要な情報か、不要な情報かを自分で判断して「公開」か「捨てる」を選び山札を引くということを繰り返す。そして全ての山札と手札がなくなったら、公開された情報と、「捨てたカードの記憶」を頼りに、事件の全体像を共同で推理し、用意された質問にすべて答えなければならない。正答の数が得点になるのだが、ここで「公開してしまっているとマイナスポイント」のカードがあることによって減点がなされる(むやみに公開することの抑制)。そして「捨て札」が6枚以上なければならない、という制約もある。
 ソロプレイは本来の遊び方ではない、と書いた理由は大体分かると思う。1人でやると、結局自分一人が全部カードに目を通すので、そういう「謎解きクイズ」をするだけ、になってしまい、「ゲーム」性はほぼない。そして最初にプレイした「ラストコール」は割と素直な?問題だったため、そう悩むことなく満点を取ることが出来てしまった。
 このシステムのミソは複数のプレイヤーが、お互い違う情報を持っている中で(「公開」しない限りカードを他プレイヤーに見せてはいけないし、特別に許された語句以外読み上げてはいけない)、「捨てる」か「公開する」かの判断を迫られる部分だろうと思う。公開情報が少ない段階では特に、自分の手札が重要な意味を持つのかどうか全く分からない。手札3枚、というのはなかなか微妙な線で、運にもよるが、どのカードも保留しておきたい、でもそれでは次へ進めないと悩むことの多い枚数。ただ、「捨てたカード」についても、最後の推理で記憶を頼りに語ることは可能なので、「この程度は覚えておける」と自信のあるカードなら、重要そうでも捨ててもいい……かもね?

 ソロプレイは推奨できないことは書いた。2人はどうだったかというと、これは一応ゲームの体は為す。ただやはり、カードの半分ずつを見てしまう、ということでかなり「縛り」が少ない印象(捨て札は6枚以上なのでお互い全く見ることが出来ないカードは3枚前後でしかない)。そして5人でのプレイだが、これはかなりゲームの印象も変わる。メンバーの性格もあるだろうが、ああでもないこうでもないと思いつきがポンポン飛び出してくるので、とにかくそれが楽しい。ゲームクリア以前に、そういう話題の拡がりが生まれるところもこのシステムの目指しているところのようにも見え、となるとやはりこの5人近辺がベストプレイ人数では?という気がした。残りの人数(3、4、6、7、8)でプレイされた方々の意見も伺いたいところだ(8人、は特に気になるかな……)。

 しかし、ある種の不満というか、作り手としては「ここ何とか乗り越えられないかな」という課題のようなものも改めて感じたことも事実だ。「改めて」というのは、たとえばマーダーミステリーであったり、前項で紹介した『Detective』などにも共通して存在する「ミステリ好き」「謎解き好き」としての不満だ。
 例えば脱出ゲーム、謎解きゲーム好きの人などは特に、初めてマーダーミステリーをやったとき、こう思わなかっただろうか。「いや、こんなの推理で解けないし」と。
 この『Qシャーロック』にしても『Detective』にしても、実のところそうだ。いわゆる「犯人当て」と呼ばれる謎解きミステリーというのは、「問題編」の中に必ず犯人を論理的に特定できる手がかりが埋め込まれていて、それらをきちんと全部拾えば犯人が分かるようになっている。が、これらの「ゲーム」は、実のところそうではない(ことが多い)。事件についての断片と、関係ありそうで関係ないものをまぜこぜにして、なかなか全貌が見えないようにする。それは「推理小説」「謎解き」というよりも実際の「捜査」のシミュレートに近い。本当の捜査では、ちゃんと犯人が論理によって特定できるよう証拠を残してくれているとは限らない。「捜査」ではむしろ、点と点をうまく繋いで隠された絵を想像、創造する力が試されるようにできている。それはそれで面白いことは確かだ。先ほど書いたようにああでもないこうでもないとみんなで言い合う余地が残されている。
「ミステリーゲーム」と言っても、こういった「捜査ゲーム」(マーダーミステリーもここに一応含めていいだろう)と「謎解きゲーム」は微妙ながらも埋めがたい違いがあるような気がする。果たして「捜査ゲーム」に、論理――演繹的な推理を持ち込んで面白くすることができるのかどうか、それが今気になっているところなのである。

http://www.groupsne.co.jp/products/bg/Qsherlock/index.html

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