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『winny』/優れていれば、正しいのか(映画感想文)

いわずと知れたファイル共有ソフトの開発者である金子勇を主人公に、彼がソフト公開後京都府警に逮捕された顛末を描いた映画。
逮捕容疑は、そのソフトwinnyによる著作権法違反。金子の作ったソフトにより著作物が違法に交換されるようになったというのが理由で、物語の前半はその是非に主眼が置かれる。著作者や権利保有者に無断で映画や音楽データが交換されているというのだが、金子自身が何かの(映画など著作権のある)データを流したり誰かに渡したりしたことはない。彼は著作権を犯していない。
著作物を安易に交換できる仕組みを整えたことにはなるが彼自身は法を犯していない。にもかかわらず警察は金子の逮捕にこだわった。winnyを使って映画を違法にダウンロードさせた人物たちも逮捕されてはいるが。
「著作権について議論するきっかけになれば」といった内容の書き込みをしていたことと結び付けられ、金子は「現状の法制度に対しテロ行為をはたらこうとしている」とまで警察はいう。しかしそれだけで逮捕までするか、…警察には本当はもっと別に金子を逮捕したいねらいがあるのではないか、という疑問が前半の物語の推進力になっている。
この着眼がどれほどの事実に基づくのかは判らないが(描かれている出来事はほぼ事実に違いない。ただ、そのときの人たちの考えと、警察にそういった目論見があるという観点が弁護士たちにとって最需要検討課題であったかどうかという可視化し難い意図の部分が、どれほど問題の中心にあったのかは判断し難い、と僕は感じた)、サスペンスとしてはおもしろい。警察が隠しているねらいがあり、それにより一開発者がみせかけの容疑で逮捕された、というミステリーだ。

弁護士たちには大義もある。
革命的なソフトを開発した金子の逮捕が正当化されると、以降の開発者たちが委縮してしまう。それは国益を損ない、自由な開発を生む土壌を壊してしまう。そうさせてはいけない、という巨視的な観点だ。「自分は有罪になってもかまわないが他のプログラマーに迷惑をかけたくない」という主張を金子もたびたび口にする。
この点はあきらかに既定の事実に対してだけしか対処することのできない警察、また過去の事案に照合して判断することを是非とする裁判所の分が悪い。金子のプログラム能力と発想には日本を変えるだけの力がある。そのパイオニアを弁護士たちは法権力から守ろうとしている。保守的な権威者が悪で、革新的な姿勢の善の図式で映画はこの物語を描く(確かに担当した警察のやりくちは卑劣であり、まぁこれも事実だとは思うが、…)。
しかし本当にそうなのだろうか。

東出昌大演じる金子は大変チャーミングで、私利のない人物だ。
実在の氏もそうであったとは壇弁護士の弁だが(演じられた人物ではなくこれも実在の)、この金子を見ているとやはり「法権力の警察が優れた頭脳の持ち主を理解せずその才能を封殺した」という図式に僕らはあてはめて映画を観てしまう。無垢で、可愛げがあり、そして他人を欺くことなどまったく頭のなかになさそうなこの不器用な人物を助けたくなる気持ちは判る。
いつぞやの不倫の件で世間から強力なパッシングをくった東出昌大という俳優を僕は好きでも嫌いでもないのだが(なにより『寄生獣/完結編』(14、15)しか観たことがない。演じた島田役は大変よかった)、あの過熱した糾弾まがいの会見のなかで「妻と不倫相手とどちらが好きか」という下劣な質問に対し型どおりの回答ではなく「妻を傷つけることになるので申し上げられない」と答えたときには、おっ、と思った。この期に及んでもまだ責任回避や一方を偏重したお仕着せの模範解答をせず正直に答えるこの人物に、誤解を恐れずにいえば僕は好感を抱いたのだった。多分この男は他の人が持っていない何かを持っていると。

今回そんな人物が演じた金子はとても魅力的で、また実在の氏に大変よく似ているという。
守りたくなる何かが彼にはあり、常人とは異なる魅力もまたあるのだ。
しかし、本当に彼に罪はないのだろうか。
どういった観点で警察が彼を逮捕しようとしたのかについて映画はちゃんと映画的理由と決着を用意している。よって物語としてのカタルシスもあり、金子に対して是の感想を抱いて劇場をあとにすることになるのだが、日が経つにつれ、本当に彼に罪はなかったのだろうかという疑問がわずかに残っていることに気付く。
子どもたちを相手に「行き過ぎた科学を監視することの大切さ」や「早急さを増す文明の進歩がときどき大きな取返しのつかない失敗を犯す」ことについて書かれた文章を日頃多く目にしているからかもしれないが、やはり文明の進化(というよりその速度)に懐疑的なのだ。
確かに彼の開発した情報共有の仕組みは素晴らしく価値があり、その彼が罪に問われて失われた7年間をもっとよく活かすことはできたという仮定には首肯するが、しかし、そこで「開発者が優れていてもやはり使う人間の民度が追い付いていない場合は人間にとってよくないことが起こる」のではないかと僕は思い、そして「開発したものに使用者責任は問えないとしても、もしもの違法な使用や危険な用途については十分以上に想定すべきだ」と考えてしまうのだ。
映画のなかに登場する弁護士たちにはこの観点が欠けていると思う。やや極端なのは承知のうえで書くが、原子爆弾を開発する技術を人間が手にすることや、それを肯定することで、さらに強力な爆弾を開発するものを委縮させないという判断が正しいのか、という考えだ(スマートフォンを子どもに持たせることで便利にはなるが、それは人間の能力を大きく後退させているのでは、という考えもアリ)。金子に罪があるとすれば、彼が「そうなるかもしれないことを予見することはできながら踏みとどまらなかった」点であり、そこに著作者の権利を破綻させる意図がなかったとしても、多少は自分の技術を他人に披露する(顕示するまではいかない。そういう人ではない)喜びに負けてしまったのではないかと思ってしまうのだ。これをオープンすれば誰かが喜ぶ。多くの人を喜ばせたいというのもまたひとつの人間の欲望であり、それをがまんできなかったところに金子の危険性を誰かが見た(予見した)ということはいえるかもしれない。
善人であるとか無垢であるという理由だけで「したことは悪いことではない」と単純に判断を下すことはできない

技術に対する見方は性善説と性悪説によっても変わり、また変化の見方によっても変わるだろう。僕は性善説の強い信奉者だが、科学技術の速さに対しては強い懸念を抱いている。人間はここまで進歩する必要はなく、いまの特に情報媒体の進歩は結局のところ効率を上げて人を貧しくしてしまったのだと思っている。便利になって貧しくなった。さらに、われわれは、後戻りができなくなってしまった。

アメリカでは、イーストウッド監督の複数の作品や、ここ数年のIT関係発明家や起業家、アスリートを題材にした作品のように現代にまだ生きる著名人を映画化しその是非を社会に問う機会も多いが、日本ではあまり見ない。
歴史のなかの偶像の位置に置き換えないとあれこれいえないのは日本人の国民性でもあり謙虚さでもあるのだろうが、その枠に収まらないという点でも映画『winny』は大変おもしろかった。
分野は異なれど、描かれているのは「表現の自由vs個人情報守秘」にも似ている。立ち位置により最優先するものが変わる人間生活必須の矛盾のようなもので、その点ではここまで警察側を想像力に欠けた保守バカのように書かなくてもよかったのではないかという気もするが、映画としては仕方がなかったのかも。三浦貴大演じる壇弁護士も魅力的だが、なにより吹越満演じる秋田弁護士がめちゃくちゃカッコいいです。

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