見出し画像

『ダークナイト ライジング』/比べようのない異なる二つの物語(映画感想文)

『ダークナイト ライジング』(12)が『ダークナイト』(08)と比べて不当に評価されている、というのが僕の勝手な思い込みであればいいのだが。この2作は比べるものではまったくなく、それでも好みを訊かれたら僕は個人的にはこのトリロジーの壮大な幕引きを図った三作目が好きだと答える。

『ダークナイト』の成功直後からスタジオにもメディアにも「続編はいつか?」と執拗に問われるなかで、ノーラン監督もまた、「それを作る必要が本当にあるのか」を問い続けていた。ジョーカーの与えたインパクトの大きさや『ダークナイト』の作品としての完成度がくびきになったことは否定できない。作るなら前作を越えなければならず、いや「越える」という観念ごと捨てまったく別の新たな着想を求めなければならない。同じパターンでただスケールを大きくしただけでは前作のパロディにしかならない。そんな作品を作る気はない。やすやすと越えられる作品でもない。

どういった経緯でノーラン監督がこのプロットに行き着いたのかは判らないが、結果的にまったく違う骨組みの映画は、しかしちゃんと作られた。

『ダークナイト』のヴィラン、ジョカーと『ライジング』に登場するベインは位置づけからして異なる。
ジョーカーはバットマンと似ている。街を跋扈する超人的能力を有しながら、その実どちらもコスプレした変人だ。ただその出自はジョーカーが混沌、バットマンは法(彼は復讐から生まれ私怨を超越することでたまたま法の存在意義と同様の立場に至った、…というのが僕の個人的見解ではありますが)であり、踏み誤れば二者は同一になってしまう。「光の騎士」であるハービー・デントを鏡として見れば、どちらもデントの対局にいることが判るだろう。見る角度によってデントの対はジョーカーになり、バットマンになる。繰り返すがジョーカーはバットマンにとって取り込まれてはならない自分自身のパロディだ。
ところが『ライジング』でのベインは違う。彼は、肉体的にもそして精神力の強さにおいてもバットマン/ブルース・ウェインを凌駕する存在として登場し、前作でジョーカーを否定することで勝利できたバットマンは、今作においてはベインを越えなければ勝利できない構造になっている。
この構造の差異について、実はわれわれは後作である『ライジング』の「敵の力を(修練して主人公が)超える」の方に馴染みがある。日本のマンガやアニメで描かれたヒーローはほぼすべてそうしてきたのだから。しかしそれはあくまで日本的な発想であり、思い返せばアメリカ産のヒーローは自力ではなく(クリプトン星人であるスーパーマンを引き合いに出すまでもなく)生まれながら「別の能力」を持つ特別な存在が多い。
この点において『ライジング』の物語、特にブルース・ウェインというひとりの人間としての成長憚としての物語に強度が与えられたといっていい。

ジョーカーの起こす事件が「街」を舞台としてそのなかで狂気の犯罪者が暴れまわるサイズであったのに対し、ベインが「街」の外を相手にゴッサムシティごと強奪して人質ならぬ街質として占領してしまうという展開も、物語をスケールアップさせるのに大変効果的だった。説得力のある絵を物語に無理なく溶け込ませる手管にかけて現代ではノーラン監督は他の追随を許さないが、前作も今作もそれは遺憾なく発揮されている。前作の成功で使える予算が増えたことも大きいのかも。原則CGを用いない(それではアニメと変わらなくなってしまう、と語っている)という方針に基づき、われわれの眼前で展開されるのは誰もが見たくても見られない驚愕のスペクタクルだ。ただしそれは豊穣な想像力によって支えられたものでないと陳腐にもなり矮小化する。
そのスケールサイズもまた『ライジング』の方が上だと思う。

今回改めて観直して、鑑賞後の最初に僕が発した一言が「『ノータイム・トウ・ダイ』って『ライジング』のパクりだったのでは、…」だったのは寂しい限りだ。クレイグ・ボンドの最終作である『ノー・タイム』は何度観ても最悪の蛇足で、どこがという指摘はネタバレにもなるので割愛するが、なんともやるせない気分になった。
英国出身の映画監督として「ボンド映画に興味がある」とノーラン監督はいっているそうだが、僕としてはぜひともボンドをジョセフ・ゴードン=レヴィットでやってほしいと思っている。このコンビの007なら絶対におもしろくなる気がしませんか?

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?