念仏とアストラルレベル
念仏は無碍の一道なり。
ゆえにアストラルレベルでのあらゆる霊的存在はたちまちにして成仏し、一切考慮の対象とならない。
その消えゆく瞬間に最後の悲しみの歌を奏で、憎しみの炎を燃やすかもしれない。
それを誰かが謡曲に書き留めるかもしれない。
それは芸術として成立するかもしれない。
それはよいことのように思える。
しかし、霊的存在を口実にシャーマニックな能力もない「司祭=僧侶」たちがやってきて執り行う儀式のすべては偽善だ。
私はそれらのすべてを無視する。
念仏は無碍の一道なりという信仰の確かさにおいて。
ゆえにいろいろな理屈をつけて偽善的な儀式に一定の価値を見出そうとする真宗僧侶のすべてはニセモノであると断言する。
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