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この世に投げ返されて 臨死体験と生きていることの奇跡 (9)

~光は障碍物を必要としている~

 光の性質についてもうひとつ述べておきたいことがあります。
 臨死体験で、または浄土教でいう「無碍光」は、時間と空間の中で観察される「通常の光」とは異なります。
 通常の光は遮蔽物があると貫き通すことができません。
 無碍光ではないのです。
物質的な障碍物を通り抜けることができません。
無碍光はどんな障碍物も通り抜けることができ、宇宙の隅々まで染み渡ります。
「清浄」なる「無碍光」だけが一切の存在に染み渡ります。

しかし、それは生死を超えた究極の世界においてのみです。

実は、無碍光ももっと繊細なレベルでは障碍に反射するという性質を持っています。
もし、そうでなければ、存在=非存在は、清浄なる無碍光がひたひたと打ち寄せるだけの「空なる世界」だったでしょう。
時空のあるこの物質的な世界は存在すらしなかったでしょう。
最終的には無碍光は、一切の遮りを溶かし切って、光だけの世界に召喚するのは確かです。
しかし、私たちが現に生きているこの娑婆世界では、無碍光もまた「あえて」障碍物としての私たち衆生(生きとし生けるもの)や物質世界を通り抜けずに、照らし出します。
そうでなければ私たちのこの限界のある世界は初めから存在しえなかったのです。

このことを説明するために私がしばしば用いる比喩は、宇宙空間の暗黒です。
この物質的宇宙でのお話なのですが、私たちの太陽系では最も遠い惑星まで太陽の光が届き、惑星は自ら輝いていないのにもかかわらず、太陽の光を反射して煌めくのはよく知られている事実です。
しかし、宇宙空間は実際には暗黒です。
そこに太陽の光はまっすぐに進行しているだけです。なぜならそこには光を遮る障碍物がないからです。障碍がなければ光は暗黒の中を進行するだけです。
 物質的宇宙で私たちの網膜が眩しい光を捕捉することができるのは、光源の方向を見た場合と、何かに反射した光を見た場合だけです。
惑星が光るのも、月が光るのも、太陽光を反射するからです。碍げるから反射するのです。
また空が青いのは、大気中の無数の粒子が青い光を反射しているからです。何千メートルもの高山に登ると頭上の空気の層はやや薄くなり、空は青からやや紫に近づきます。宇宙空間の暗黒でもなく、地表から見る青でもない、その紫の空の不思議な色合いは私たちの魂をどこか深い次元に誘う魅力を持っています。
このように物質宇宙において、光の障碍物がなければ、そこは暗黒の世界です。
そのことは比喩となって、精神的な次元での光と障碍物の関係を物語っていると思います。
阿弥陀仏と音訳され、尽十方無碍光如来と意訳される限りなき光は、煩悩に満ちた私たちを照らし出します。私たちはその光を煩悩という障碍によって遮ることで反射するのです。

これによって了解されると思うのです。
私たちが無碍光を必要としているだけではない。
無碍光の方でも私たちを必要としているのです。
様々な限界を持った、煩悩にまみれ、姿形を持った私たちが存在しなければ、この世界は光が暗闇の中をどこまでも進行するだけの伽藍洞です。
悩み苦しむことは何もないが、それぞれが自分自身にしか放つことのできない光を反射することもないのです。
私たちは皆、無碍光の障碍物です。だからこそ、それぞれの光を放つことができるのです。

仏教では悟りを開いていく道筋を往相、悟りを開いた存在がこの世で光を放ち、光の輝きを告げ知らせる道筋を還相と言います。
それを私は次のように表現したいと思います。
往相(悟りに向かって往く姿)とは、私たちが無碍光に目覚めそれに身をさらし、光にとけていくプロセスです。
還相(悟りをひらいた自分がこの世で周囲に光を放つこと)とは、無碍光に必要とされるままに、私たちがこの世の限界ある存在として自分自身にしか反射することのできない光を反射することなのです。

もしも私が心肺停止のあと意識を回復せずあのまま死んでしまっていたら・・・。何度も私はそれを考えました。
安らぎに満ちた何の障碍もない、清浄で無碍な境涯。
永遠の今ここに目覚めている世界。
それはこの上ない真実(サット)、覚醒(チット)、至福(アーナンダ)=サッチタナンダです。
しかし、それは光自身は光を体験しないことからわかるように、光に満ちた暗黒であり、私はこの世になに一つ働きかけることができないのです。

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