唱題に対象としての本尊など必要ない

僕からすると本来「不二」なのが実如。
しかし、人間の認識構造は、色と識の相依相待において(十二縁起の要)二元論的。

ゆえに日蓮遺文「木絵二像開眼事」(1273)(真蹟あり)にこうある。

「色心不二なるがゆゑに而二とあらはれて、仏の御意あらはれて法華経の文字となれり」

これは人間の二元論的な認識構造に合わせて、本来は不二なるものを、主体と尊崇の対象に仮に分けて唱題を唱えるように仏が意図し、それを通して、不二の実如に還るようにしてあるんよーと日蓮が言ってるように読めます。

ゆえに唱題はやってるうちに不二になるはずです。

そしてしょっちゅうそうなっていると、尊崇の対象が不要であるところにいき、さらに唱題が不要になるところにいく。

てか、ほんとは初めからそうだったと悟るということです。

本尊の真偽問題など、あらゆる地上の権威の問題は消失します。

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