仏教を超えて

昨日のZOOM楽座「法華経を読む」感想コメントを自分の文章だけ転記します。

法華経は通読してないし、講義をチャラ聞きしたことがある程度だったので、勉強になりました。
しかし、皆がすごいというからすごいとされてるだけ、法華経自体が法華経をすごいと言い過ぎ、中身はけっこう薄い、弘めることを行とするのはよくない、ナショナリズムが強い人に利用されやすい、差別表現は多いなど、もともとの印象は強まりました。

(真宗の話に移ってます)
無常、無我、空である限りにおいて、
名詞はすべて幻想と思います。
阿弥陀とは、限りなき用き(はたらき)であり、
他の仏と区別される固有の仏が存在すると考えるのは幻想と思っています。
無碍光というとき、光を名詞と考えている人もいますが、
光は動詞としてしかありえません。
光が光ることはありません。光るという動詞の連用中止形が光りです。

同じく本願も、願うの連用中止形が願いで、本来動詞です。願いが名詞なら願いを願わないと、動かない。働かない。生きてはたらく願いは動詞だと思います。

現し世は限りなき願いがはたらくダンスのことを言うと僕は思います。(ダンスも動詞)
そんな僕は、古代インドの差別や偏見を反映した48願を信奉するのは、固着した「宗教」に過ぎないと思うので相手にしたくないのです。

法も生きてはたらいてナンボですよね。
素晴らしい憲法を持つ国でつくづく感じます。苦笑

差別偏見に満ちた48願などは、日本国憲法に書き換えられたと思えばいいぐらいです。

(真宗も親鸞もすっぽ抜けているのがいいというコメントを受けて)

何のしがらみもない、ラッキーな境遇ですので。
そうは言うけど、、、、というお立場のある方からは、嫌われがちです。(^_^;)

とりま以上。

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