見出し画像

この世に投げ返されて(23) ~臨死体験と生きていることの奇跡~

(23)

心室細動で倒れる前、初めて釜ヶ崎三角公園を訪れた時の話をもう少し続けます。
音楽のステージの合間に、商店街の中の中華居酒屋と書いてあった店に入ると、中国人のママと、少し若い小姐でカウンターを切り回していました。
日雇い労働者風の男たちが20人以上、昼間から酒を飲んでいます。
 カウンターに座ると、ママがおしぼりを持ってきて、私に向かって「お疲れちゃん!」と言いました。
このへんの労働者と思われています。
中国語で話すと、今度は中国人かと中国語で聞かれました。
中国に出張をすることもある企業の会社員であるという、状況から見るとまずまず妥当な予測線は、すっ飛ばされています。
風貌とヴァイブスから見て、そういうスクウェアな人間ではない。
日雇い労働者か、地域に紛れ込んでいる中国人か、どちらかだ。
そう、見られたのでしょうか。
 私は日本酒の熱燗を頼みました。
徳利とお猪口を持ってきてカウンターに置きます。店を切り回す多忙の中、接いでもくれて、一合300円でした。
一度、中国語で話すとその後も私には中国語で話します。実はそれほど堪能なわけでもないため、苦労しました。
耳を傾け、必死にリスニングして、一所懸命文法に沿って文を組み立てて答えます。
聞き返されないで会話が続くたびに「おっ。通じた」と胸を撫でおろします。
 その中国人のママさんは元気溌剌、店を切り回しながら、男たちのセクハラまがいの言動を適当にいなしています。
そんなやりとりが男たちの癒しになっているようでした。
ただし、私が中国語でカウンター越しに質問した結果では、ママさんは結婚していて子どもがふたりいるのでした。
「ここでは皆、あなたのことが好きなんですね」と中国語で言うと、照れ笑いしていました。
 男たちの歌うカラオケの曲は、演歌ばかり、漁師の歌を歌い終わった男が、オレは男だ、漁師の息子だと言って他の客にアピールしているのが、キュートというと語弊があるのですが、微笑ましいと言えなくもありません。
学校のクラスにもこういう手合いは必ずいますが、そのまま大人になってしまったような姿です。
 私の観察では、ここの客の何人かにひとりは、もしクラスにいたら、今の学校の視点では(その視点がいいか悪いかは大いに問題だが)発達障碍ということになるように思いました。
ぶつぶつという言動や突発的な大きな動作、目の動きなどで、そう感じました。
 ある一人の男は特に他の客への関わり方の突発性が、コミュニケーション障碍ということになりそうだなと思いました。
その彼が他の客に迷惑な動きをしようとすると、カウンターの女の子がすかさず「じっとしとき!」などと声をかけています。
どうも彼にいちいち注意するのは、ママさんの役ではなく、このもうひとりの子の役のようでした。
全体としてここに集う人たちが昼間から飲んだくれて過ごすのを、ふたりの中国人女性が世話をしながらも、大きな逸脱をコントロールしています。
そういうコミュニティがここに形成されているのだと感じました。

さて、臨死体験と、障碍者としての権利を得るためのいくつもの闘いを経て(闘いはまだ始まったばかりでしたが)、私は久しぶりにこの娑婆の代表のような懐かしい町を訪れました。
2014年の夏祭りが行われる日でした。
車椅子に座ったまま、公園で身近な人と話していると、自分にとってこの場所が以前よりもさらになじみやすい場所になっているようなに思えました。
車椅子がある種の通行手形のようにして、私をこの町に吹き寄せられてきた人間のひとりとして自然に見せているような気がしたのです。学校の勤務を休み始めてからの無精髭も功を奏していたかもしれません。
しかし、自分ではそれはコスチュームプレイのようなもので、一種のインチキであると感じていました。私はここの本当の住人ではありません。

夏祭りの重要な行事のひとつが、この一年にこの地域で行き倒れて孤独死した人々の供養です。カトリックの本田哲郎さんや、浄土系の僧侶がボランティアで供養に参加していました。
私は基本的に「霊的な供養」というものを全否定している人間です。しかし、孤独死した最後の瞬間に後からでも思いを馳せ追悼するということには意義を感じました。
供養が終わると、ステージでは様々なミュージシャンの音楽が始まりました。日も暮れる頃、だんだん三角公園に群がっている人々の層が変わってきます。有名なラッパーのSHINGO☆西成のフアンが徐々に集まって来始めたのです。年齢層も若く、ファッションも今の若者風の人が増えてきます。
この現象には賛否両論あるようですが、私は基本的に文化というものは常に雑多にチャンプルーするのがよいと思っているクチでした。
SHINGO☆西成のステージは混雑して、私の車椅子からは見えにくくなるので、早い目に飲み物だけ持って、最前列に詰めました。若い男女が既にあたりを占め始めていました。その中に車椅子の青年がいました。私が挨拶すると、脳性麻痺なのでしょうか、体をくねらせながら笑い返しました。
その周辺に数名の若い男女がいて、彼の友人だと名乗りました。友人みんなで彼を今日のお祭りに連れてきた。SHINGO☆西成のステージは特に楽しみにしていると言うのでした。
私が一番長く教員をした大阪府H市の小中学校では、できるだけ障碍のある生徒とその他の生徒が同じ教室で一緒に学ぶ「統合教育」が、何十年来、行われてきました。小さな子どものときから、様々な個性の子どもと一緒に障碍のある子も教室にいるのが当たり前なのです。
子どもですから、ともに過ごす中で何の遠慮もなく、転げまわるようにして過ごします。そんな中で彼らは互いに相手のできること、できないこと、付き合い方を学び、友だち関係を築いていくのです。それは、大人になってから初めて障碍者に出会った人が、「どのように接したらいいだろうか?」と戸惑いながら、善意に基づくものであれ、施しのようにして手助けするのとは異なる「自然な関係性」なのです。
 今、目の前にいた車椅子の青年とその周囲にいた「友人です」と名乗る人たちは、そのような自然な関係性を築いているように見えました。
もっとも、私の勤めていたH市ですら、小中学校はそのような友だち関係の中で過ごしても、中学を卒業すると、進路先が異なり、「分断」されてしまうのが、現状でした。
その課題に焦点の強い中学教員は、「〇〇くんを囲む会」といったものを組織することがあります。卒業後も障碍のある子を囲んで、中学のときのクラスメートが集まり、一緒に過ごし、楽しむのです。
私はそのような教員時代の取り組みを走馬灯のように思い出していました。今、目の前にいる青年たちは、そのような教員の取り組みさえ越えて、自然につながっているのだろうか。そんな中、友だち同士として、今日は一緒にここに来たのだろうか。だとしたら、とても素敵なことだと私には思えました。

もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。