聖なる植物を扱えるのは宇宙と血の誓約書を交わした者ではないだろうか?

聖なる植物を効能や毒性によってきちんと峻別した上で合法であることをはっきりさせ、医師の管理下に置こうとか、宗教としてだけ認可しようという意見がある。

その話し合いの中で僕は、国家や医師は宗教も最も信用ならぬ存在であると発言し、シャーマニックな、あるいはトランスパーソナルなトレーニングを積んだプラティクショナーによる指導や見守りの方がよい方向性ではないか?という妥協的な意見を言ってみた。

しかし、本音はそうではない。本音は、真摯な探求者やアーチストは資格に関係なく、生きて死ぬ上で全き自由の中で踊るというものだ。

資格制度そのものが近代の病であることに気づき唾棄するべきだ。

たとえば、優れた大工はたたき上げの職人であり、大学に通って一級建築士の資格をとったものとは限らない。学校や学会は関係ない。多くの場合、有害ですらある。

もしも、オルダス・ハックスレーが、認可された資格がないという理由で聖なる植物の使用を禁止され、さらにはそれから切り離されて拘禁されていたら、それは人類にとって大きな損失だっただろう。

誰が、「カモメのジョナサン」「イリュージョン」「ONE」を書いたリチャード・バックが、聖なる植物のことなど知りもしないと断言できるだろうか。

そして、真の優れた芸術家は、聖なる植物があろうがなかろうが、宇宙の神秘を奥深く解き明かしたり、どこまでも美しくまたどこまでも醜く、詩や音楽や絵画に描ききる。

そのための最大の鍵は、どこまでも繊細に、どこまでも嘘なく、観つめ、感じ、表現しきることだろう。
その用意が、その覚悟ができている者なのか、どうなのか、いったい誰が決めることができる?
他の誰かに決められる筋合いなどあってたまるか!

君は自らの滴る血液で、邪悪な悪魔と聖なる神とあらゆる精霊を孕む内宇宙そのものと血の誓約書を交わすことができるか。
それだけが唯一問われているのであって、あとはすべてくそ食らえである。
何らかの資格、そして聖なる植物すらも、くそ食らえ!

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