沈黙されている史実を観る

DVD「ルック・オブ・サイレンス」見た。

沈黙を見るということ。
「アクト・オブ・キリング」の続編である。
1965年、インドネシアでの民間人を利用した共産党員大虐殺の史実。
その時の虐殺を反省していない人々に、監督が「そのときのことを語って演じてください。映画にしましょう」と持ちかけると、虐殺の張本人たちは英雄きどりでノリノリで思い出を語り、衣装も用意して、再現の演技をするのが「アクト・オブ・キリング」(殺すところの再現演技)。
このドキュメンタリーのラストシーンは、あまりにありありと思い出した彼らが、英雄気取りを続けられなくなって、嘔吐するシーンで終わる。

今回の「ルック・オブ・サイレンス」は同監督による続編で、兄を殺害されたアディが、「アクト・オブ・キリング」の監督とともに、虐殺の加害者たちと会い、当時の話を聞きこむ。アディは眼鏡屋さんで名目上、彼らの眼鏡のピントの調整(象徴的である)のために訪問し、その仕事をしながら、話を聞き込んでいく。

「このレンズではどうか?」「同じだ」というセリフが何度も出てくるように、現時点で振り返っても、加害者たちはなかなか、自分がやったことのあるがままの「真実」を見つめることはしない。「こうして、こうして、こうやったんだ」という意味では「事実」としては、語るのだが、そのことの持つ本当の意味、自分の本当の感情や感覚はなかなか表面化しない。ピントを合わせない。

いや、人によっては、ピントが合いかける。ピントが合いかけるからこそ「政治の話はするな」と怒り出す者がいる。「今さら蒸し返してどうする?」と怒り出す人がいる。「自分のせいじゃない。責任者は自分ではない」と言い訳する人がいる。「私の父のしたことを許してあげて」と懇願する娘がいる。

今もなお、隣人としてかつての加害者と被害者がともに暮らす地域で、深い沈黙に包まれている史実を、見定めようとする眼鏡屋アディ。彼はけっして糾弾だけを目的としているのではないのがよい。彼はただただ、ピントをきちんと合わせて本当に見ることをひとりひとりに要求していくのだ。

このことは、いろいろな意味で日本人にも必要であり、同族で殺し合った済州島の住民にも必要であり、たとえばガマの中の出来事について沖縄の民にも必要だろう。
ピントを本当に合わせて見ること。それは政治の話である以前に、ほとんど文学の仕事である。

僕はソヌフイという朝鮮人作家の書いた小説「背面」を、何十年来、小説の鑑として、重んじている。
主人公の朝鮮人イム(日本名林)は、自分はなぜ日本軍に協力し、戦後米軍によって、捕虜虐待の戦犯として処刑されなければならなかったか・・・自分の人生をあるがままに振り返ることを成就する。

ソヌフイは「背面」の前書きで私は五五歳にして本当に文学にしかできない仕事は何なのか、やっとわかった。「この小説がそのことがわかった私の書く最初の小説である」と一見、大上段に構えたことを述べている。
しかし、この作品を読み終えたときには、そのことの意味はくっきりとする。そしてそれがただの大言壮語ではなく、地に足のついた実感だったのだとわかる。

見るということ。ピントをしっかりと合わせて余すところなく見るということ。それだけが、真の解決であり、僕が文学と仏教において、求め続けてきたただひとつの奥義だ。

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