拙著における阿弥陀経冒頭部分訳のこだわり

こだわり1 如是我聞の訳
お釈迦様の言葉を聞いて私の心の闇が照らされ次のように光が射し込んだことを報告いたします
と訳しました。
実は記憶力のすぐれたアーナンダは結集の前日まで覚えているだけで理解してなかったと言われるので、そこに焦点をあてるとこの訳は、釈迦の言葉を聞いた時点では嘘になります。しかし、後に、覚えていたこと全部を理解したときから、振り返るとこの通りになると思います。

こだわり2 給孤独園の訳
この経典が説かれたのは、
ギッコドクという、孤独な人々に炊き出しの活動をしていた人が、お釈迦様に寄進した土地です。
と訳しました。
このとき、僕の頭の中に連想されていたのは縁あってしばしば訪れる大阪市西成区の釜ヶ崎です。
あのようなところで説かれた経典だとおさえたいと思いました。

参考

こだわり3
さて、次に経典は、聴衆を列挙する。
読経するにしても、法事で聞かされるにしても、退屈な部分とされがちである。
私はここに各聴衆の個々の特質をほんのひとことずつ書き加えることで、わざわざ名前を並べることの意義が浮かび上がると考えた。
そして、その「作業」をしているうちに感じたのは、これって、学校の一クラスみたい!
という点であった。
「クラスにおったな、そんなやつ」みたいな。
(ちびまる子ちゃんはよくできた漫画だなあ。)
そこには現在では障礙名がついたり、発達障碍のグラデーションの中にあるとされるようなありとあらゆる人たちが含まれる。
シューリハンダカの知的障碍は誰でも気がつく。
だが、記憶第一だが、理解ができない、ただそのまま覚えてしまうアーナンダも何らかの「発達障碍」ではないのか。
天文学や数学の能力だけがずば抜けて高いマカコウヒンナは、アスペルガー症候群ではなかったか。
アドロウダは失明して、真理を見抜く目をもった。
48願が障碍者差別と批判されている願を含むのに対して、ここには、釈迦弟子たちをただ並べることによって、意図してか期せずしてか、あらゆる障碍や特性をもった多様な人々が聴いていたという叙述になっている。
それを訳に活かしたかったのである。
その上で
如是等 諸大弟子

このようにそれぞれの業をかかえながら、それを転じて花を咲かせた偉大な釈迦弟子たちが、この説法を聴いていたのです。
とまとめたのである。
菩薩の名前につけた短い紹介はここでは省く。
最後に
大衆倶
を意訳してあえて
これらすべてのものたちが、ふだんから祇園精舎での炊き出しなどに集まっている、貧しく孤独でよるべのない多くの人々と一緒にこの説法を聞いたのです。
としました。
まとめると、あらゆる障碍や特質をもった人々、すべての人々を救う行をしている諸菩薩、帝釈天をはじめとする神々、貧しく孤独でよるべのない人々が聴衆であったと訳しました。


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