魂の螺旋ダンス(29) ・カルトと絶対性宗教の狭間

・ カルトと絶対性宗教の狭間

 本章では、超越性宗教が固着化していくと同時に権力を得た形を絶対性宗教と定義してきた。

 また超越性宗教が固着化していきつつも権力からはむしろ弾圧され内閉していく姿をカルトと呼ぶことにしている。

 だが、そのカルトが、絶対性宗教ともいうべき「権力と一体化した巨大な宗教団体」へと「成長する」ことはしばしばある。

 ここでは、日蓮正宗の信徒団体として出発した創価学会が、戦後教勢を拡大した姿を最たる例としつつ、その絶対性宗教化を批判しておきたい。

 既に本書でも、日蓮を取り上げた節で述べたように、法華経は自らを最高の経典であると謳うために多くの文言を費やしている。

 もちろん、日蓮もまた多くの超越性宗教の創唱者と同様に、社会の最底辺から直接的に超越性原理に繋がる道筋を宣言して出発した宗教者であることは、認めるにやぶさかではない。
 
 しかし、日本を法華一乗の国と為したいとする日蓮のナショナリストとしての性格は、「この教えこそが最高である」という絶対化に、瞬く間に傾斜していった。

 中でも日蓮正宗の元となった大石寺は、自らの有する板曼陀羅を「戒壇の御本尊」であると主張した。
 これこそが、立宗27年後に日蓮が「出世の本懐」を遂げたものであるとし、同寺の権威の唯一絶対性を主張したのである。
 
 日蓮法華宗に連なる各寺、各派における権威の正統性の議論は複雑さを極め、本格的に論じることは本書の守備範囲を超える。

 そこで今は、創価学会が「国立戒壇に掲げ、全世界の中心としよう」としていた、大石寺の「戒壇の御本尊」の正統性についてのみ検討することとする。

 もとより、私は宗教の根源に現世の具体物としての本尊というものが必要であるなどと考えたことはない。

 であるから、この「戒壇の本尊」が本物であるか偽物であるかについて日蓮に連なる人々が議論を重ねていることそのものが全くの無意味であるという違和感は強い。

 その上で、それでも問題にするべき点があるとすれば、次のような点だけであろう。

 この板曼陀羅は「大石寺の主張する由緒どおりの」「日蓮が板に書いた文字曼陀羅(南無妙法蓮華経を中心とする)を弟子の日法に彫らせた」「日蓮出世の本懐である」「戒壇の御本尊」に間違いないのだろうか。
 つまり、少なくとも「戒壇の御本尊の権威を認める人々」にとっては、重要な「本物」であると言えるのであろうか?

 この点については、安永弁哲の『板本尊偽作論』はじめ多くの資料において詳細な議論が為されてきた。

 が、偽作説を決定的なものとしたのは、犀角独歩の『大石寺漫荼羅本尊の真偽について―所謂「本門戒壇の大御本尊」の図形から見た鑑別』(『現代宗教研究』第39号所収)であると言えるであろう。

 犀角独歩はこの論文において、板曼陀羅の図像分析を詳細に行っている。その結果、その図形は弘安3年に日蓮が筆をとり、日禅に与えた曼陀羅と同一のものであることがわかったのである。
 
 つまり、大石寺が言う、「弘安2年に日蓮が板に筆を揮い、日法に彫らせた『出世の本懐』としての『戒壇の御本尊』である」という主張は虚偽であることが証明されたのである。
 権威主義者が権威の根拠としていた主張が虚偽であったということの意味は大きく、その権威は何重もの意味で地に堕ちたというべきだろう。

(ここに正本堂建立と取り壊しなどいくつかのプロセスを加筆するか検討中)

 さて、日蓮正宗の信徒団体として出発した創価学会は、その後、数々の抗争の末、本体の日蓮正宗からは破門され独立した宗教団体となった。

 山崎正友によって公表された「水滸会記録」にも見られるように、この団体はその初期から「天下取り」を潜在的な真の目的として、強引な折伏や言論弾圧、政治活動を続けてきた。

 そして今や事実上一体である公明党が連立与党の一角を占めることで、この国をコントロールする大きな勢力のひとつになったとさえ言えるだろう。


 フランスではナチスドイツに苦しめられた歴史的経緯などもあるため、カルト(フランス語ではセクト)を「デモクラシーの敵としての全体主義をもたらすもの」として強く警戒する風潮が強い。

 そのフランスの国民議会(下院)の調査委員会がまとめ、一九九五年に採択された報告書「フランスにおけるセクト」で、創価学会はフランス国内で活動しているカルト(セクト)のひとつとして実名で挙げられている。


 しかし、政府、官庁、司法、警察・・・そういった権力の中枢部に隠然とした力を及ぼすようになったとき、その宗教団体はもはやカルトとは言えない。

 公明党が連立与党に参加した段階で、創価学会は絶対性宗教への過渡期に入ったと言えるだろう。


 仏法をして王法を超えるものとする超越性は仏教各派にある意味で共通するものだが、そこに急進的な使命感や排他性を伴うとき、宗教的目的の完遂のためには手段を選ばないという危険な思想的傾向が生じる。

 そういった思想集団が、権力を有するようになったとき、その危険性はさらに深刻なものとなる。


 多くのカルトは、力が増大してきた成長期に、時の権力や民衆の良識によって叩かれ、その勢いを削がれてしまう。

 創価学会にも何度かそういった局面があったが、そのたびに並外れた権謀術数の力によって切り抜け、もはやカルトとは呼べない段階に達してしまったのである。


 ある意味では、既に告発され潰え去ったオウム真理教やライフスペースなどの問題よりも、創価学会を論じることこそ、この島の未来を考える上で非常に重要になってきている。

 私たちは国家神道などの復活を警戒することと同時に、いずれかのカルトや宗派などが国家権力と一体となり、絶対性宗教と化していくことには、常に目を光らせていなければならない。

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