新インド仏教ー自己流ー

その5

インドの因明が、どのような学問であったのかを示す文を、抜粋しておきましょう。

 ブッダの全知者性(ぜんちしゃせい)にせよ、輪廻的(りんねてき)存在(そんざい)にせよ、普通、われわれはそれらを信仰の領域に属するものとして合理的思(ごうりてきし)惟(い)の対象としては考えない傾向にある。しかし、これまで確認してきたように、古代インドの仏教徒たちは、信仰と理性との間に線引きを行い、両者の架け橋(かけはし)を断とうとする近代的思考とは異なる地平で、これらの宗教的命題を捉えるための努力を行ってきた。それは、彼らの論理学が、決して経験的事象を記述することだけを目的としたわけではなく、むしろ最初から宗教的命題を視野におさめ、われわれの認識を超えた事象を検証・判断するための方策(ほうさく)として構築されたことを意味するだろう。(護山真也「全知者証明・輪廻の証明」『シリーズ大乗仏教9 認識論と論理学』2、2012、所収p.253、ルビ私)

現代人には、馴染みのないこのような学問が、インドではしっかりと根を下ろしていたわけです。そして、隣国チベットでも、この理屈っぽい学問は盛んでした。というよりも、彼らにとってなくてはならないものだったのです。それを伺わせる文を引用してみましょう。

転生によって、大ラマを選出するのは、チベット仏教独特の特徴である。転生観は明らかに、インド由来であるとしてもだ。法称の論書『量評釈』は、チベット僧院の因明の訓練で使用されている基本テキストであるが、生まれ変わりに関するチベット仏教の論理的議論の主たる源泉である。

The election of Grand lamas by reincarnation is unique fiature of Tibetan Buddhism,although the idea of reincarnation is clearly of Indian origin.Dharmakirti’s treatise Pramanavarttika,a principal text used in Tibetan monastic training in logic,is a major source of Tibetan Buddhist logical arguments for rebirth.( Xiangyan,Wang,Tibetan Buddhism at the Court of Qing:The Life and Work of lCang-skya Rol-pa’i-rdo-rje(1717-86)、pp.33-34)

チベットでは、歴代の高僧は誰かの生まれ変わりです。それが途切れなく続いていきます。そんな話を聞いた方もいるでしょう。その生まれ変わりを保証しているのが、因明なのです。ここで言われているように法称の『量評釈』は、輪廻の証明に真正面から取り組んでいます。また、シャカが全智者、一切智者であることも証明しようとしています。現代人からすると不可思議に見えますが、本気で論理的証明が可能であると考えて取り組んでいたのです。それほど、論理を重要視したのが、インド仏教なのです。ところが、中国や日本では、因明はそれほど重んじられませんでした。法称という名前は伝わりましたが、7つある彼の著作は、ついに漢訳されることはありませんでした。インド仏教史を学ぶことは、中国、そして日本の仏教を考え直すことにもつながるのだと理解して下さい。少しその点に触れておきましょう。

中国仏教の中で有名な高僧に玄奘(げんじょう)という人がいます。『西遊記』の三蔵法師のモデルになった人物です。玄奘は、実際に、中国からインドに渡り、後に、中国に帰還します。玄奘が訪れた頃のインドでも、因明は、盛んでした。玄奘は、602-664年に生きた人で、629-645年に渡って、旅行を行っています。湯浅泰雄と言う心理学者には、『玄奘三蔵』という結構厚い著作があって、インドと中国の両方の.思想に触れた人物として、玄奘に関心を向けています。その中には、こういう記述があります。

玄奘はインドに来てから主に陳那(じんな)の因明を勉強している…(湯浅泰雄『玄奘三蔵』平成3年、p.244、ルビ・〔 〕私)

また、ナーラーンダーでの学習について、以下のようにいいます。

 玄奘はこの外に因明の学者として知られるディグナーガ(陳那)の集量論(プラマーナ・サムッチャヤ)や声明(しょうみょう)(言語学)関係の講義を二回きいている。(湯浅泰雄『玄奘三蔵』平成3年、p.264,ルビ私)

しかし、この因明は中国には馴染まなかったようです。湯浅氏はこう述べています。

 中国と西洋の哲学史をくらべてみると、中国では論理学、問答法(弁証法)、修辞学(しゅうじがく)といった、言葉の使用についての思考があまりみられない。戦国時代には名家(めいか)という詭弁(きべん)学派のような一派があったというが、ほとんど後世に伝わっていない。以前、玄奘三蔵の伝記をよんでいて一つ気づいたことがある。彼はインドから「因明」とよばれる仏教の論理学(弁論術の性格もある)を中国に伝えたのだが、中国の仏教界では、そんなものは仏教にとって小事にすぎないとして相手にされなかったという。(湯浅泰雄「身体の宇宙論」『湯浅泰雄全集』第十五巻 心身論(II),2012,p.252、ルビ私)

日本でも同じように扱われていました。比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を開いた最澄(さいちょう)の言葉にそれが見えます。

 伝教(でんぎょう)大師(だいし)最澄(さいちょう)〔767-822〕が「四記(しき)答(とう)〔質問への肯定・分析・反論・無答〕は智(ち)の所須(しょす)に約す。三支(さんし)の量〔因明の論証〕、何ぞ法性(ほっしょう)〔真理〕を顕(あら)わさんや」といって、因明は仏教の至極(しごく)を説く一乗(いちじょう)の立場を明らかにする学問ではないと明言しているように、…(武邑尚邦『因明学 起源と変遷』2011新装版、p.152,ルビ・〔 〕私)

難しい文章ですが、因明を学んでも悟りは得られないと明言しています。因明を通して見ると、日本仏教とインド仏教とは全く違う仏教です。これがインド仏教史を理解する鍵ともいえます。

〈付記〉

インド仏教史と言いながら、いささか毛色の変わったものになっていることをご理解いただけたと存じます。

才所丑松 記 令和4年 12月大晦日の夕

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